こんにちわ、ゲストさん
ログイン2017年10月30日
1.経理部での業務開始
中国研修から帰任すると、空港には、両親が出迎えに来てくれていた。
その夜、父親と酒を飲みながら、「経理部に配属になってしまった」と愚痴を言ったら、「出世コースだ。頑張れ」と励まされた。
出世コースかどうかは分からなかったが、ともあれ、やってみようとは考えていた。
希望と違う部署に配属されたからと言って、手を抜いて、「使えないやつだ」と思われるのは、まっぴらごめんだ。何年在籍するかどうかは分からないが、前向きに頑張ろうと考えた。
日本到着の翌日に、先ずは経理部と人事部に挨拶に行った。
日本に帰国する前に、身だしなみを整えようと、香港で髪を切ったのだが、そこで妙に斬新な髪形にされてしまっていた。当時の福州に比べてみると、香港はあこがれの大都会。その髪型が流行の最先端だと疑いもしない僕は、その髪型のまま挨拶に行って、随分、とっぽいやつが帰ってきたと思われた様だ。ただ、元気は良い、という評価はもらった。
次に、人事部に挨拶に行くと、僕が提出していた月次報告書が妙に評価されており、「君の人柄が現れた、非常に良い報告書だったよ」と褒められた。
とは言え、褒められるよう報告書を書いた記憶はなく、提出していたのは、毎月の関与したビジネスと成約高を、箇条書きしただけのものだった。怪訝な顔をする僕に、「どの研修生も、報告書には不平不満を書いてくる。2年間、一度も不満を書かなかったのは君だけだ」と言われ、そういう事かと合点がいった。
最初の1年、会社に多額の学費を払ってもらい、また、給与まで受け取りながら勉強していた訳なので、不平を言う筋合いはないと思っていたが、そう思わない研修生が大部分だった様である。彼らは、「あの会社(ライバルの6大商社等)の方が待遇が良い」などと、自分の待遇と比較して、やたらと不平不満を月次報告書に書いていたようだった。その実、たいした違いはなかった筈だが・・・
褒められた後、「研修制度のために、何か提言が有れば言ってくれ」と言われたので、「しめた!」と思い「研修生は、ほぼ全員、彼女や婚約者に逃げられています。僕もそうですが。結婚を認めないと、研修希望者がいなくなるのではないでしょうか」と言うと、研修担当の課長と担当が、「それはいかんなあ」と真顔になった。研修生の結婚が認められたのは、次々回の募集からであり、6商社横並びの考え方から、その扱いは、他の商社にも広がった。
この制度変更に、僕の悲しい経験がなんらか役に立っている筈なので、ちょっとは人の役に立ったと自負しているが、誰も知らず、褒めてもくれないのは残念だ。
本社挨拶を済ませると、その翌日から一週間の設営休暇がもらえた。配属先の海外経理課の課長が寛容だったためである。
その期間を利用して、早稲田にワンルームマンションを借り、身の周りのものを購入した。
世はバブルに浮かれていた。
皆な派手に金を使い、高級レストランは満席、タクシーは全くつかまらない。
そして、妙な音楽が街中にあふれている。いかすバンド天国でデビューした歌手や、ちびまる子ちゃんのテーマソングなどである。
わずか2年の間に、全く変わってしまった日本の状況に、戸惑い、浦島太郎になった自分を認識した。
設営休暇が終わると、正式に経理部海外経理課での仕事が始まった。
経理部での配属先が、海外経理課だったのは、僕にとっては幸いだった。
会社の決算を担当する主計課や、税務申告を担当する税務課とは違って、海外経理課はルーティーン業務が少なく自由度が高かった。
一応、海外現地法人の決算管理(資料作り)が主業務ではあったが、海外巡回の機会も有ったし、海外店の財務分析をしたいと言えばやらせてくれた。
経理に骨をうずめる気はなかったので、仕訳を憶える事は拒否していたが、仕事自体は真面目にやろうと思っており、英文財務諸表、財務分析、経営管理の本を読み漁り、それを、海外現地法人の財務諸表に当てはめて、分析を繰り返した。
また、パソコン担当になったのも有り難かった。当時は、パソコンがまだ普及しておらず、20人程度の課に1台しかなかったし、一定年次以上の社員は、パソコンはおろか、ワープロも使えなかった。
パソコン担当というのは、何のことない、計数入力係なので、雑用だと、課内では敬遠されていたのだが、パソコンを憶える良い機会だと喜んだ。
そんな感じで、経理マンとしての僕の生活は始まった。
2.海外出張の思い出
今から思えば、当時の業務環境は非常に良かった。
バブルの頃で、業績もよく、社の雰囲気にも余裕があった。経理の人員数にもゆとりが有り、余った時間で好きな仕事ができた。そして、出張の機会も有った。
今でも記憶に残っているのが、中近東、台湾、上海への出張だ。
中近東出張は、海外経理課での初めての出張だった。1991年に勃発した湾岸戦争では、周辺国でも危険度が高い、ヨルダン・シリア・カタール・サウジ・バーレーンの駐在員が避難した。終戦後、駐在員の不在期間に経理関係の問題が生じていないかを確認するために、僕が2週間派遣された訳である。
終戦直後で、まだクウェートの油田が燃え盛っている時であったし、生まれて初めての中近東で、どんな場所だか全くわからない。その状況での出張は、怖いのは確かだったが、まだ若くて好奇心があったし、何より、久々の海外業務で嬉しかった。
怖さ半分嬉しさ半分、というのが、出張が決まった時の気持であった。
出張当日、成田空港から香港トランジットでバーレーンに向かう。
当時の海外出張は、20代でもビジネスクラスが使用できたので、日本から香港までのキャセイ便は、それまで経験した事が無いほど豪華な座席で移動した。そして飛行機を乗り換えバーレーンに。
バーレーン到着は朝5時。ヨルダン行きの飛行機は朝10時半発だったので、束の間ホテルで仮眠を取り、再度、飛行場に向かった。
このヨルダン行きの飛行機の印象は、いまでも強く残っている。何しろ、機内で東洋人、更に、スーツ姿は僕一人。周りは全て、民族衣装を身にまとった、髭面でがっちりとした男性であり、自分が異分子であるのを強く感じた。予備校時代に模擬テストで出された英語の問題に、日本居住の西洋人の文章が引用されていたが、それを無意識に思い出していた。そこには、「日本では自分が異分子である事を感じる。そして、彼らが、全員で襲ってきたらどうしようと、ふと考える事が有る」と書いてあり、当時は、「馬鹿々々しい。考え過ぎだ」と思ったが、その時の自分は、まさに同じ事を考えた。そして、姿かたちが似通っている中国での生活は、まだストレスが少なかったことを実感した。
そんな緊張は有ったものの、機内で出てきた卵ご飯が妙に美味しく、全て平らげ満足したのも確かであるが。
ヨルダン空港には、現地社員の古株(番頭さんと呼ばれていた)が迎えに来てくれた。ヨルダンでは、2泊の滞在だったが、最終日は金曜日なので仕事はできない。業務可能時間は1日半と極めて短い。
更に、アラビア語が分からない僕は、伝票に付いている証憑の内容が、さっぱり理解できなかった。経理配属1年未満という経験の無さも相まって、できる仕事には限りが有ったが、現預金残高の確認と、伝票と証憑の金額確認だけはしておこうと、限られた時間で、その仕事を黙々とこなした。
仕事の面では、そんな感じの地味なものであったが、シリアへの移動日(夜便で移動)が金曜日の休日であったため、ヨルダンの主管者の方に、死海とジェラッシュ遺跡に連れて行ってもらったのは有り難かった。
子供の頃から、死海に浮かぶ人の写真を本で何度も見たが、自分がそこに浮かぶ機会が来ようとは、夢にも思わなかった。死海は塩分濃度が極端に高く、手ですくうと水がジェル状で、髭の剃り跡ですら痛くて耐えられない。当然、顔を付ける事はできないので、浮かぶためには、必然的に、仰向けの「く」の字型(写真でよく見るポーズ)になるのが、身をもって実感できた。そして、対岸のイスラエルが肉眼で見えるほど近い、というのも、行って初めて分かった事である。
遺跡も素晴らしかったし、街並みも美しい。初めて経験するヨルダンは、思ったよりもはるかに良いところであった。
そして、シリア、サウジ、カタール、バーレーンと回っていった。
シリアでは、人恋しさのあまりか、所長が話を切り上げてくれず、仕事が始められずに困ったり、パスポートを無くしかけて焦ったりした。
印象に残ったのは、所長と会食している時、オーバーアクションで話す所長のコップから酒が跳ねて、隣の席のシリア人女性にかかった時の事だ。謝る所長に対して、その女性は、「OK, It’s good shower」と笑顔で切り返した。ちょっと近づきがたい雰囲気の美しい女性であったが、その、ウィットとプライドに感心した。
内戦で、治安が極度に悪化したシリアの現状を考える時、あの時の人達はどうなったのかを考える。そして切ない気持ちになるのである。
サウジでは、物資は豊富なものの、酒が飲めない味気無さにうんざりし、カタールは、主管者社宅での宴席(取引先の駐在員を招いた会食と男だけのカラオケ)しか楽しみが無い生活に同情する一方で、そんな環境の中でも、目的を持って仕事に打ち込む日本のビジネスマンの姿に感心した。
そして最後のバーレーン。あと数日で、中近東を出られる嬉しさでいっぱいであったが、仕事を終わらせた後に行くホテルのジム内のサウナで、同性愛者から言い寄られるのには辟易した。そこが、同性愛者のたまり場になっていたのも確かであろうが、後で気づけば、髭を生やしていないのも一因かもしれない。中近東だと、髭が無いと同性愛者だと誤解されると聞いた事があるが、実際、出張する時には、そんな話はすっかり忘れていた。
これも、経験しないと実感できない事であろうか。
そんな感じで、経理業務経験1年未満だった僕の、頼りない経理巡回であったが、自分自身の経験としては、非常に強いインパクトを持ったのは確かである。
次の、台湾出張は、台北支店の現地法人への組織変更のための出張だった。とは言え、これは、当時の課長と台北支店の経理部長の親心とも言える出張で、特に現地では、何の手助けが要る訳ではなかったが、僕に経験を積ませる場を与えてくれたのだった。
実際、この出張は非常に勉強になった。組織変更の実務、会計・税務・外貨管理上のポイントを、現地で臨場感を持って学ぶ事ができ、これが、その後、他の海外店の組織再編を担当する時に、大きく役立った。
その次は、1992~1993年の上海出張だ。
1990年に、外高橋保税区の設置が認可され、そこに登記する事を前提に、当時禁止されていた、外資販売会社の設立が例外的に認められた。
法律上、外資販売会社の設立が認められたのは2004年の事であり、それまで、商社は中国に、正規の現地法人(国内流通権を持った現地法人)を設立する事はできなかった。
保税区登記の販売会社を設立すれば、活動範囲は限定されるとは言え、連絡業務しか認められない駐在員事務所とは違って、収益獲得行為が可能であるため、業務範囲が格段に広がった。
この駐在員事務所から現地法人(保税区販売会社)への組織再編のために、僕が派遣された訳である。この仕事は、非常に遣り甲斐が有った。
組織変更に伴う営業移管のスケジュールを決め、社内規則を作る必要が有ったので、経営資料を分析し、中国の会計税務規則を熟読した。
そして、この時の経験が、僕に二つの財産を与えた。
まず、一つは、営業のパワーと経理の予測力の限界を認識した事である。
上海事務所の現地法人化の予測を立てた時、既存の計数を前提とし、今後の経済成長率などを掛け合わせた場合、全面移管すれば、大幅な赤字となる事が予測された。そこで、数年かけた部分移管を提案し、実際、当初は、その前提で営業移管が進んでいた。それが、1~2年経過した時、「そんなまどろっこしい事はしていられない」という経営判断で、完全移管が実施された。それを知った時、「どう考えても黒字化は無理で、大変な事になる」と僕は思ったが、結果として、上海現地法人は、あっさり黒字を達成し、数年後には、億円単位の純利益を獲得するようになった。
その時、僕は、経理の考え方でベストを尽くしたつもりだったが、営業のバイタリティは、その予測をはるかに越えて、売上を何倍にもし得るという事実を認識した。そこに、経理の発想から出られなかった自分の限界と、営業担当者のパワーを感じた。この経験を踏まえて、営業の可能性を伸ばすという発想が、経理としても重要だと考え、また、自分でも、金を稼いでみたいと考えたのであった。
そして、もう一つは、この時の経験を生かして、「中国投資Q&A」という社内配布冊子を作製した事だ。
当時の丸紅の経理組織は、本部経理と営業経理に分かれており、僕は本部経理に属していた。営業部が会計税務で困ると、基本的には、部門内に抱える営業経理に相談し、本部経理には頼ってこない。結果として、情報やノウハウは、営業経理に蓄積され(本部経理には集まってこず)、それが、僕の経験の欠如、ひいては実力向上の妨げになると考えていた。そこで、社内配布冊子を作り、中国に関係のある営業部に、無料配布したのだが、それがきっかけとなり、営業部から僕を指名した相談がくるようになった。
この時の経験から、「情報は、発信するところに集まって来る。情報が欲しければ、頭を下げるのではなく、自分が情報を発信する事だ」という考えを持つようになったのである。
3.経理の仕事が好きになる
経理に配属されて、2年、3年が経過し、海外店の組織変更など、面白い仕事を任せてもらえるようになると、最初は嫌いだった経理の仕事が、徐々に面白くなってきた。
そして、それを決定づけたのは、税務の仕事を始めた事である。
海外税務の仕事では、タックスプランニングを組む事ができた。例えば、各地の税制を調べていた時、豪州にロストランスファーという制度がある事を知った。これは、同一親会社が100%出資する現地法人間であれば、税務欠損を譲渡できるという、変則的な連結納税制度である。そこで、100%出資子会社の税務申告書を集めてみると、やりようによって、8億円の税コストがセーブできる事が分かり、これを提案してみた。これは一例であるが、自分の発想とやる気次第で、こんな仕事ができる機会ができたのである。
税務の仕事は、自分のアイデアが、金銭価値に明確に反映されるのが嬉しかった。どんなに経理の仕事が好きになり、誇りを持つようになってきても、金を稼いでいない負い目が、いつも自分の中にあった。会社の近所で同僚と酒を飲んでいても、同年代の営業部課の人間が近くの席に着くと、居心地悪く感じたものである。
それが、税務の仕事をする事で、自分の満足感が得られたし、次第に、米国税務、特に、組織再編税制などの、パズルの様な面白さにひかれていった。
それもあって、経理部に骨をうずめる決意をし、本格的に経理税務を勉強するために、専門学校に通い、税理士試験を受験する事としたのである。
ただ、税理士試験は、1997年に香港赴任をした後は、まったく受けておらず、結果として、部分合格のままであるのだが。
この様に、経理部配属後、自分の考え方が徐々に変わっていったが、それには、周りの人達の指導、サポートが大きな影響を与えているのは確かである。その中で、一番影響を受けたのは、当時の課長であろう。
当時の課長は、変化を好まない経理マンには珍しく、新しいやり方を求め続ける人物であった。僕に、出張機会を与えて業務経験を積ませてくれたのも感謝の限りであるし、業務に対する姿勢を教えてくれた事にも感謝している。当時の経理部は、減点評価の管理部門の常として、営業部に対して積極的な提案をする事は、リスクを抱え込む事だと敬遠されていた。よって、営業部のアイデアに対しては、保守的な回答をするのが良しとされる風潮が有った。そんな中で、当時の課長は、「人に考えさせて、Yes、Noと言うだけでは、プロの仕事とは言えない。Noと言わざるを得ない案を提示されたら、どうしたらYesになるかを考えて提案するのがプロの仕事だ」という意見を持っており、それを厳しく仕込まれた。その考え方は、今でも、自分の中のこだわりとして、強く残っている。
その経験もあるので、僕自身は、「管理部門も独立採算組織であるべし」という考え方を持っており、経理部集合研修、管理職昇格論文などで、事あるごとに主張してきた。
これは、管理費負担金で配賦する形ではなく、提供する役務に対して金銭の受け払いをする事で、管理部門は、はじめて積極的な提案をするようになり、仕事の質が向上するという考え方だ。そして、この考え方が、その後のコンサルティング業務開始に繋がっている。
2~3年次下の同僚達との交流も、経理部在籍時代の忘れられない思い出である。
僕が入社4年目で経理部に帰った時、新入社員が10人弱いた。
財務と経理の仕事は、経験が無い人から見れば同じように映るのだが、その実、かなり内容が違っている。帰任当時の僕は、財務部での1年の経験は有ったものの、経理知識は皆無であり、その意味で、新入社員達とは、同じスタートと言ってよかった。
また、新入社員達も、一様に、経理に配属された事に不満が有り、(丁稚奉公程度の経験であっても)海外で営業のまねごとをした経験のある僕は、興味深い存在であった様だ。
年齢が比較的近い事や、そんなお互いの気持も相まって、彼らとは、酒を飲みながら仕事の愚痴も言い合った。また、飲んだ後に、僕の部屋に泊まる後輩も多かったので、簡易合宿所の様な状況だった。
「表の作成や資料作りだけして、自分の成長に何か役に立つのか」とか、「誰かがやらなければいけない仕事であるのは分かるが、何で自分なんだ」という愚痴が多かった。
確かに、表の作表では、縦横計算の端数の合わせ方や、罫線を太線とするか二重線とするかで激論となり、海外現地法人の決算概況説明で、〇〇現法好調の要因は食料部の増益ですと答える課長が、部長から「取扱商品は?ジュース?それは何ジュース?」と聞かれて、課長が血相変えて資料をめくっている姿は、どうにも、意義が薄く思えた。そのため、「これが何の役に立つんだ」という気持は、当時、僕自身も、絶えず感じでいたが、時間の経過とともに、そんな仕事からも、多くの事を学んでいった。
スポーツ選手が基礎トレーニングをするように、自分も、当時の雑務の様な業務をこなしたことが、その後の成長を、大いに助けてくれた様である。
そして、あれから25年が経過して、愚痴をこぼしていた後輩も、本社の部長、課長職に付いている。すっかり貫禄が付いた彼らであるが、昔の、やんちゃ坊主だった時代を知っているだけに、それを思い出すと、ほほえましい気持になる。
4.香港赴任
1997年4月の辞令で、香港に赴任する事になった。
1990年の経理部配属から、7年経過しての赴任である。
当初は、中国の経理要因として経理部に配属された僕であったが、次第に、その話は立ち消えになり、欧米関係が主業務となっていた。
それも有り、おそらくニューヨーク赴任になるだろうと考えていたので、香港に決まった時は、少々意外に思ったものだ。
実際、香港赴任後、香港現法財経部長だった上司から、「中国総代表から経理担当役員に働きかけて、君の配属をニューヨークから香港に切り替えてもらった。人生変えて申し訳ない」と謝られたが、米国に赴任していれば、本を出版する事も、コンサルティング業務を開始するチャンスも無かったはずで、その意味では、有り難い出来事だったと言える。
僕が香港現法に乞われたのは、香港の中国返還に際して、大掛かりな組織変更(華南一体化)が予定されており、中国語ができる経理マンが必要だったためである。当時の経理部で中国語ができるのは僕だけだったので、必然的に僕に白羽の矢が立った。
数年間、経理部・人事部に提出する自己申告には、希望赴任地として、ニューヨークか香港と書いていた。その意図は、出世のためにはニューヨーク。やりたい仕事は香港。という事で、自分自身でも、そのどちらを選ぶべきか、決めきれなかったためである。
ただ、香港に辞令が出た事で、自ずと道は定まった。
香港の中国返還という一大イベントに関連して、面白い仕事ができるチャンスである。
当時、香港会社は、丸紅の中で、世界三大現法(米国会社、英国会社、香港会社)と位置付けられており、営業基盤も有ったので、広東省、福建省などに有る組織(現地法人・駐在員事務所)を、本社直轄から香港会社傘下に切り替える事が計画されていた。
その実務担当者となったため、もう二度と訪問する事は無いと思っていた福州を、頻繁に訪問する機会を得たのである。これも運命であろうか。
そして、その数年後には、思い入れのある福州事務所を、僕自身の手で閉鎖する事になるのだが、その顛末は後述する。
香港赴任日は、前任者から指定の有った4月11日の金曜日であった。会社の引継ぎ期間は、原則として2週間と決められていたため、土日を有効に使って引継ぎをしようという趣旨だ。金曜日に到着しても、2週間という期間は変わらない筈だが、香港に愛着が有る前任者は、土日はカウントしない、という自己ルールを作って、4月11日(金)から28日(月)までを引継ぎ期間とした。つまり、4日間さばを読んだ訳であるが、2週間、土日も休まず働き続ける事が、事前に決まっていたわけだ。
着任日、香港到着は午後2時頃。
先にホテルのチェックインを済ませ、午後5時頃に会社に顔を出した。
営業時間は午後5時半までなので、会社の人達に挨拶したら、その日はもう終わり。直ぐに歓送迎会に繰り出す事となった。
丁度、その日は金属部の駐在員の帰国前日で、彼の送別会と僕の歓迎会を兼ねた会となった。会場は、帰任する駐在員行きつけの銅鑼湾の日本料理屋だが、内装はかなりぼろい。
通されたのは、個室と呼んでいいのか分からない、薄い板で仕切られた小さな部屋で、「随分汚い場所で食事をしているもんだ」と少々驚いた。そして、メニューを見て、料金の高さに、また驚いた。どうにも、物価が高く、着任前は、給料の高さに喜んでいたが、思ったより使い手は無さそうだ。
料理の味は、可もなく不可もなく。日本酒はあまり美味しいとは言えない安酒を、一升瓶で数本空けた。皆な機嫌よく盛り上がった。
それから、帰任する駐在員の馴染みの店を、2軒、3軒と飲み歩き、全てが終わったのは午前2時であった。その日は、日本で朝5時に目を覚まし、やっと眠りに着いたのは、午前3時(日本時間で4時)である。長い一日がやっと終わった。
翌日は土曜日だが、出社である。
朝10時に出社して、黙々と引継ぎを行なった。環境が変わり、緊張しているせいか、眠気も疲れもそれ程感じない。それから毎日、休みもなく飲み歩きながら仕事をするというハードな毎日が続いたが、やはり元気であった。
しかし、業務の説明をされても、あまり実感が湧かず、2週間後に自分一人で出来るようになるのか、不安が募った。
とは言え、前任者が帰れば、否が応でも自分でやらざるを得なくなる。
最初は、仕事の要領が掴めず、毎日、夜遅くまで仕事をしたが、それだけでは終わらず、よく酒も飲んだ。0時まで残業し、それから飲みに繰り出すというのもしょっちゅうで、良く身体がもったものだが、駐在直後の緊張感と高揚が、それを支えていた。
そんな日々を続けてきたが、精神的にも業務的にも、一息ついたのが、中国返還の頃。赴任から約3ヶ月経過した時である。
中国返還前日は休日となった。
午前中は出社して、午後3時頃まで仕事をしたが、さすがにここで緊張が切れた。疲れて何も出来ない。
オフィスは返還式典会場の正面にあるため、夜まで残っていれば、盛大なパレードと花火が窓から見られるという、理想的なロケーションだが、身体が辛くて会社に残っていること自体が辛い。
歴史的な一日であるため、残念ではあるのだが、会社を出て、近所のスーパーでシャンパンと持ち帰り寿司を買って帰宅した。部屋でうたた寝をして、目が覚めるとすでに夜になっていた。
返還式典をTVで見ながら、一人ソファーに転がってシャンパンを飲んだ。
赴任前に思い描いていた、歴史的イベントの過ごし方とはかけ離れた、なんともわびしい過ごし方であった。
翌日(7月1日)の返還記念日は、午後までのんびりと寝て、夜会社に出かけた。
その日も盛大な花火が予定されていたので、会社の窓から見るためである。
社員の家族が集まって、窓の外に広がる花火に見とれていた。
「前日の花火は英国のアレンジ、今日の花火は中国のアレンジ」という話を聞かされた。そう言われると、何となく催しも中国風になったような気がしたが、まだ、中国に返還された香港、という実感が湧かなかった。
花火の後、MTR(地下鉄)の混雑を避けて、湾仔まで歩いて一人で夕食を食べた。
通りは人で溢れている。若者、子供連れ、なにやらお祭り帰りの様な表情である。
返還されても、前日とは、何ら変わりの無い街中が不思議であった。
5.久々の福建省訪問
華南一体化計画により、福建省を再訪できる可能性が生まれたのは前述の通りだが、それが実現したのは、3ヶ月後の7月中旬であった。
出張の目的は、廈門・福州駐在員事務所の組織変更の下準備だ。
両事務所とも、所管を本社から香港現法に切り替える事になっていたが、特に廈門は現地法人化が決定しており、この対応も必要であった。組織変更にはそれなりの作業と時間が必要であるが、先ずは現地の下見が必要と、廈門・福州各々1泊の、短い出張が決定した。
現地作業は僕だけでも事足りる。ただ、中国経験が無い割には、意外に中国出張好き(?)な上司が是非行きたいと希望し、2人連れの出張となった。
一人でじっくり感傷に浸りたいのが本音であるが、わがままは言っていられない。
僕が研修生の頃は、香港から廈門・福州へ行く飛行機便は、週に数便しかなかったが、1997年には、廈門へも福州へも、毎日3便程度が飛ぶようになっていた。
廈門と福州は、廈門に常駐する駐在員が兼務していたので、先ずは、廈門を訪問する事にした。
オフィスから当時のカイタック空港までは車で約30分、香港空港から廈門までは、飛行機で1時間程度の距離なので、午前11時にオフィスを出発すれば、午後2時前には廈門に到着できる。あまりに近くて、出張という気にもならないが、7年前の研修生時代には、福州から見た香港は、出張許可の面でも、移動手段の面でも、なかなか行けない遠い場所であった。交通インフラの状況も、社内での僕の立場も、たった7年で大きく変化していた。
7年ぶりに、廈門に到着した。
空港の場所は以前と同じであるが、建物は建て替えられ、綺麗になっている。
実務研修生時代、廈門は10回ほど出張したが、全て1~2泊の滞在であり、街並みは、あまり覚えていない。
印象に有るのは、何時も宿泊していた鷺江賓館と、そこから見えるコロンス島の景色程度であるが、そんな僕でも、明らかに変化が分かるほど、廈門の街は変わっていた。
道路は拡張され、美しく整備されているし、夜は、街が華やかにライトアップされる。特に、コロンス島は、島全体が明るい光に包まれ、テーマパークの様な風情がある。昔、鷺江賓館の屋上で、暗いコロンス島を眺めながら酒を飲んだ事を思い出した。
あの時は暗かった島、街が、今では光に包まれている。
会社の組織も確実に成長していた。僕の研修時代に、開設準備中だった廈門事務所は、既に廈門現法への昇格が決定しており、社員も駐在員1名、実務研修生1名に現地社員8名を抱える所帯になっていた。福州出張所の社員(現地社員5名)を合わせれば、総勢15名であり、7年間で3倍の陣容に成長した事になる。
廈門事務所では、社員を紹介され、業務内容・組織概要に関して打ち合わせを行った。今後の組織変更と、業務移管スケジュールの確認を終えると、ホテルにチェックインし、社員全員と会食を取る事となった。
会場は海鮮料理店。これも、豪華な造りで、1階で選んだ海鮮を、2階・3階の個室で食べるシステムである。
昔、不便な思いをして住んでいた場所が、短期間で、これ程綺麗で便利に変わってしまうのは、嬉しいような、損をした様な複雑な気分である。
少なくとも、今の廈門の駐在員に、昔の苦労話をしても、まず信じてもらえないであろう。
あまりに街が変わったので、久しぶりに廈門に来たという実感が沸かない。レストランも初めての場所、ホテルも当時はなかった外資ホテル。
これでは、懐かしさがこみ上げてこない。
それでも、「懐かしがらねば損だ」という気分で、初めて会った廈門事務所の社員に、昔の思い出を語り、乾杯を繰り返し、心地よい酔いを感じながらその日の夜は更けていった。
翌朝、眼が醒めたら二日酔いであった。
それ以上に、腹がきりきり痛む。
どうやら、昨夜飲んだ水割りの氷にあたったらしい。廈門の主管者も上司も大丈夫な様なので、疲労で身体が弱っていたのだろう。
氷にあたるのは、台湾での語学研修生以来だが、ともかく痛くて辛い。
そして、一週間程度は、痛みが残る。
その日は、朝9時に廈門を出発して福州に移動する事になった。
到着予定は午後1~2時頃との事なので、以前は、車で6時間かかった移動が、高速道路の開通により、3~4時間で移動できるようになったという事だ。
腹痛を抱えての3~4時間の移動はきついが、それでも久しぶりの福州が楽しみで、気持ちが昂る。穏やかな天気の中、宿泊していた廈門ホリデーインホテルを出発した車は、街を抜け、高速道路に入っていった。
ここで分かったのは、運転手が、ともかく恐ろしいほどのスピードを出す人間だという事だ。平気で130~140キロの速度で走り、途中で、危うく人を轢きかけた。隣にいる上司(財経部長)は、何度も顔を覆って、ヒヤ-と女性の様な叫び声を上げている。
廈門所長は慣れたもので、平然と助手席に座って、廈門の説明や、廈門事務所の業績を話しつづけている。
中国語が分からない財経部長が、「もう少し、スピードを下げるように、運転手に言って下さい!」と叫んだが、廈門所長は表情を変えずに「安全開車吧(安全運転しろよ)」と運転手に伝えただけだった。運転手は、自分では安全運転をしているつもりと見えて、「うん」と頷いて終わり。スピードも落とさなかった。両者の会話のギャップに気付いているのは僕だけなので、一人笑っていた。
しかし、この運転手は、運転技術はあるが、このスピードで事故を起こさないのは奇跡的だ。それでも、彼が廈門事務所を退職するまでの10年以上の間、結局、無事故・無違反で終えたのはたいしたものである。
車は順調に走りつづけた。
周りには、昔、見慣れた海と山と畑が広がっている。変化もなく退屈である。
唯一、話好きの廈門所長が、延々と、声が枯れるまで話し続けているが、それが却って眠気を誘う。熱心に話す廈門所長には申し訳ないが、話もろくに聞かず、うとうとしていた。
12時頃に、福清に到着した。ここから福州までは1時間程度だが、良いレストランがあるので、ここで昼食を食べようという。
福清というのは、一章で書いたが、僕の福州実務研修生時代に日本を騒がせた、偽装難民事件の舞台となった場所である。当時、治安が悪いと聞いていた場所だが、基本的には自然が残る田舎町で、のんびりとした雰囲気であった。
そこに、小奇麗なホテルが立っており、そこの中華レストランが、廈門所長行きつけの場所らしい。確かに、出てきた料理は、田舎のレストランとは思えない程、上品で美味しかった。
特に、鶏の足とクラゲの前菜が美味しい。鶏の足は、普段は好んで食べないが、ここの料理は、骨を外し、辛子味のソースをかけ、あっさりと仕上げてあるので食べやすく、腹痛でほとんど食べられないのが残念だった。
昼食が終わると、隣の喫茶室でコーヒーを飲む事になった。
運転手を含めた4人で席に座り、コーヒーを注文し、店内を見回すと、驚く事に、以前福州事務所にいた女性社員がいる。東山県まで海老の買付に行ったとき、心配して、僕の帰りをオフィスで待っていてくれた化学品のスタッフである。
思いもかけない場所の出会いに驚いた。
向こうも気がついてくれたので、話し掛けたいのはやまやまだが、相手も連れがおり、話し掛けていいかどうか分からない。お互いに、目で挨拶を交わした。
人づてに聞くと、もう子供が出来た筈であるが、福州・廈門の貿易関係者には有名な存在だったので、未だに精力的にビジネスをこなしているのではないだろうか。
7年経っても、昔と変わらず若々しい姿に、懐かしさを感じた。
福清のホテルを出ると、1時間弱で福州だ。
1年間暮らした福州、温泉大廈の近くに来ると、さすがに、冷静ではいられなくなってきた。
ところが、廈門以上に、昔の面影が無く、当時暮らした五四路付近は高層ビルが林立している。自分がどこにいるのかさっぱり分からず、きょろきょろしていると、廈門所長が、「そこが、君が1年間過ごした場所だよ」と指差した。
確かに、温泉大廈がすぐそこにある。
7年前、15階建ての温泉大廈は、五四路で一番高い建物だったので、遠くからでもすぐに分かった。それが今では、周りに30~40階建てのビルが立ち並んでいるので、手前まで近づかないと、全く見えないようになっている。
たった7年で、これほど変わっているとは思わなかった。
目の前の現実が信じられない思いである。
ホテルに着くと、すぐオフィスに顔を出した。
当時のオフィスは14階にあったが、数年前に、14階がエグゼクティブフロアに改装されたので、真下の部屋(13階)に移転していた。
ただ、部屋の造りは同じなので、昔の雰囲気は残っている。
スタッフの人数は増えているが、顔見知りが2名いる。1名は、僕の去り際に入社した人間なので、あまり面識はないが、それなりに懐かしい。
廈門所長から業務内容の説明を受け、スタッフの紹介が終わると、一旦部屋に戻り会食に出た。移動ばかりで、殆ど仕事をしていない。
夕食の場所は、会社の近くにある海鮮料理のレストラン。注文を福州のスタッフに任せたら、蛇やら蛙の卵やら、これでもか、というほどゲテモノが出てきた。殆ど食べられず、会話も弾まず、会食は夜8時には打ち切りになった。
どうやら廈門と比べて福州のスタッフはおとなしい。
街の雰囲気そのままである。
体調が悪いと訴えて、早々に部屋に戻った。
廈門所長の気遣いで、僕が昔住んでいた部屋(1428号室)がアレンジされた。
同じ部屋に泊まれるのは懐かしいが、エグゼクティブフロアになってしまったため、妙な内装が施されているし、窓からの景色も、全く変わっている。あまりに変化が激しいので、自分が本当にこの部屋に住んでいたのか、どうにも実感がつかめない。
感慨に浸れず、損した気分なので、ロビーバーに下りて行き、水割りを1杯飲んでみた。経理部配属が決まった夜に、ショックで酒を飲みに行った場所である。
その後は、部屋に戻り、ミニバーのウィスキーを飲みながら、昔を思い出していた。
定期的に、腹がきりきり痛む。
翌朝、廈門所長に車で福州空港まで送ってもらった。
飛行場は数年前にできた新空港で、僕の知っている場所とは全く違う。車で飛ばして1時間の場所である。規模も大きく、建物も発着便数を考えると、不必要なほど巨大だ。
「空港まで全然違う。せめて場所が同じなら、少しは感慨に浸れたのに」と愚痴を言いたくなるが、こればかりは仕方無い。
福州・廈門。懐かしくはあったが、僕が知っている街とは全然違っていた。
「感傷に浸るのは早すぎるという事か」と自分を納得させて、香港行きの飛行機に乗り込んだ。
6.香港華南での仕事
香港での仕事は、期待以上に刺激的なものだった。
先ずは、福州、廈門、広州、深圳、海口等の組織変更(日本本社の事務所から香港現法の事務所への組織再編や、現地法人化)から入ったが、その内、広州現法の管理部長を兼務する様になった。
本社方針で、華南一体の計画が決まってからも、社員の意識が付いてくるまでには時間がかかった。それ以前は、香港現法は香港内取引、金融仲介取引、オフショア取引等の拠点であったので、中国本土に入ってビジネスをしようと考える駐在員、特に、管理部門の駐在員は少なかった。
唯一、深圳駐在員事務所が、香港現法の傘下で、中国本土のアンテナになっていたが、本社直轄である広州事務所との広東省内の縄張り争いが有り、それ程、充実した活動をしているとも言い難い状況であった。
その中で、喜々として中国本土に出張に行く僕は、特に、香港現法の管理部門内で奇異な存在と映っていたようであり、他の管理部門駐在員からは、「お前の人件費は、香港の営業部が負担している訳だから、中国に行くべきではない」とピント外れな嫌味を言われたりした。
とは言え、香港現法社長も財経部長も、僕の活動を全面的にサポートしてくれたので、組織再編業務には全く支障はなかったし、その働きが認められて、赴任翌年には、広州現法の兼務も決まったのであった。
広州現法で、まず考えたのはオフィス不動産での現物出資だ。広州が駐在員事務所時代に、本社資産としてUS$500万のオフィスを購入したのだが、現地法人化により、オフィス家賃を、毎年US$40~50万日本に送金する必要が生じた。この送金許可の取得が、毎回難航する事も有り、現地法人に所有権移転しようと決めたのである。
不動産による現物出資は、外資三法で認められているが、これは、原則として中国出資者に対する規定であり、外国企業の現物出資事例は殆ど無い筈だ。当時の広州市でも前例がないという事で(その10年後に上海市・広州市で確認した時も、他の実例はなかった)で、手続は難航したし、更に、日本から香港現法、それから広州現法という二段階の現物出資であったため、更に難易度は高かった。それを実現した時は、喜びもひとしおであったのを憶えている。
印象に残る業務を挙げていくと、過去に、香港現法が代物弁済で取得した、中山市にあるUS$400万の不動産の売却や、工場と同時に差し押さえた1万足以上の靴の在庫処分や営業権譲渡の手続が思い浮かぶ。
元となる取引は、香港現法独自で開始した事業であり、本社の靴本部は関与していなかったが、事態が深刻化したので、靴本部から駐在員が香港に派遣されてきた。それが、台湾語学研修生時代に、空港に出迎えてくれ、部屋を引き継いだ先輩だった。気心知れた仲だったので、その駐在員と二人で、何度も中山に行っては、売却先を見つけ、価格交渉をしたし、売却先決定後は、不動産名義変更と代金回収方法を必死になって考えた。また、倉庫に出かけては、冷房が無い真夏の香港の灼熱地獄の中、1万足を超える在庫を必死に数え、その後、酒を飲んで、あっさりひっくり返ったりもした。
それ以外では、多額の中国本土向け不良債権の回収、廈門で発生した遠華集団事件(当時、建国最大の密輸事件と言われ、その後、本拠地となった福建省だけでなく、広東省などでも極端に税関管理が厳格化された)で混乱した通関業務の対応、重慶に有る子会社の清算、雲南省昆明で発生した税務問題に関する、税務局との長期に渡った折衝など、色々な経験ができた。そして、中国本土の税務機関、外貨管理局、外経貿機関、工商局等の政府機関に対しては、外国人としては、あまり例が無いほど自分自身で出向き、交渉した。次から次へと課題が押し寄せ、それに対応できるのは、非常にうれしい事だった。
駐在前に、「中国投資Q&A」という社内配布冊子を作り、それが好意的に受け取られた事は前述の通りであるが、その冊子の限界は、作者の僕が一番分かっていた。法律を読み漁り、それを整理しただけのマニュアルなので、いくら良くまとまっていても、実務面が全くカバーされておらず、一言でいえば、奥が浅かった。
そしてそれが、当時の自分の限界でもあった。
それを自分自身で十分認識していた為に、「駐在したら、現場に首を突っ込んで経験を積もう。そして、経験を踏まえたマニュアルを作ろう」と、ずっと考えていた。そして、ひとたび問題が起これば、場合によっては、求められてもいないのに、喜々として首を突っ込んだ。そんな実務経験の蓄積を実現してくれる当時の丸紅香港現法は、僕にとって、願っても無い職場環境だった訳である。
7.廈門社長に
赴任から2年半が経過し、仕事にも随分慣れ、業務経験もかなり豊富になった頃、ちょっと驚く人事が決まった。
僕に、廈門現法社長兼福州事務所長の兼務辞令が出たのである。
1999年9月の事である。
僕の香港赴任直後に、廈門の現地法人化が実現したのは前述の通りだが、商売が伸びず、赤字続きで、主管者も退職が決定した。同一省内に二つの本部直轄組織が有るというのも、福建省だけの特例だった(丸紅の管理体制では、同じ100%出資の海外法人でも、本部直轄組織を現法と呼称し、営業部直轄組織を事業会社と呼称する等、管理体制も位置付けも異なっており、本部直轄組織の数は制限されていた)。
そこで、廈門現法・福州事務所存続要否を判断すべく、僕が社長となったのである。
この様な背景はあるのだが、生まれて初めて社長という名刺を持った僕は、少なからず興奮した。36才の現地法人社長というのは、過去の実績からしても若い就任だったので、少しは話題になるかと期待したが、あまりに小さな組織だったため、全く反響が無く、拍子抜けした。
ともあれ、僕に任されたのは、リストラ・組織再建であり、後ろ向きの仕事が多いので、社長と言って、浮かれてはいられない。
僕が辞令を貰った時には、廈門のスタッフは4名、福州のスタッフは3名まで削減していたが、それでも採算目処が立たないため、福州事務所は閉鎖、廈門会社は清算して駐在員事務所への組織変更、という選択をせざるを得なかった。
組織は変わっても、まだ存続する廈門はよいが、福州は閉鎖である。
僕が過ごした場所がなくなるのは寂しいし、3人の内1名は、僕が研修生時代一緒に働いた人間である。また、他の一名は、僕より年上で、子供もいる男性社員。
彼らに解雇を宣告するのは辛いが、避けて通れない。
せめてもの気持ちで、香港現法の営業部長や、昔のつてを辿って、彼らの再就職先を探した。年上の男性社員の就職先がなかなか決まらず苦労したが、2000年の春先には3名全員の再就職先が確保でき、福州事務所の閉鎖作業が完了した。
廈門で先ずやった事は、オフィス移転と新設駐在員事務所の所長代理の採用である。
当時のオフィスは、廈門保税区に隣接した場所にあり、場所が不便で、汚い割に高かった。駐在員事務所に組織変更するため、保税区付近でオフィスを構える必然性はなくなったので、迷わず移転し、家賃は半額になった。
所長代理の採用は、正式な辞令が出る前から、出張ベースで始めていた。
僕は香港と兼任ベースとなるし、何より商品知識がない。新規商売の開拓の為には、優秀な中国人が必要不可欠である。
何回目かの出張で、候補者が見つかった。王君という、国営の貿易会社に勤めている、僕より3歳年下の人物であった。
彼に、現地法人から駐在員事務所に組織変更した廈門事務所の営業を任せ、僕は、廈門現法の清算業務、新事務所の管理運用、香港現法や本社との連絡を担当する事とした。
廈門社長を引き継いだ時には、遠華集団事件の余韻である密輸取締りの真っ最中。廈門の大手貿易会社でも、輸入担当の役職者は少なからず逮捕されているし、営業停止状態の貿易会社も多かった。研修時代に面識が有った人間の中にも、逮捕されている人物がいるようであった。その中での、会社清算作業は苦労した。
過去の取引に絡んで、税関からの調査を受けている案件があったし、保税区内倉庫渡し取引で、倉庫代不払いのままバイヤーが倒産したため、巻き添えを食って倉庫会社から代金支払い訴訟を起こされている案件も有った。おまけに、社有車に関しても、ディーラーの輸入通関手続の妥当性が疑義を持たれ、これも、巻き添えを食った形で取り調べを受けた。全て、僕が就任する前の案件なので、淡々と対応ができたし、最終的には、全件、当社自身は問題なしとの判断が、税関・公安などから出た。訴訟も無事解決した。
毎週出張に行っては、公安・税関・裁判所・弁護士絡みの仕事をこなすのは、気が重かったが、これもよい経験になったのは確かである。
役割分担上は、僕は、あくまでも組織のマネジメントを担当し、営業には口を出さない(香港現法の営業に任せる)、というのが、事前の取り決めであったが、思い入れがある福州の営業は、僕がそれなりに関与した。
僕が不在の7年間で、福建出張所の水産ビジネスは皆無となっていた。
福建省の海老養殖場で病気が蔓延し、ビジネスが成立しなくなってしまったためである。
養殖の世界では、周期的にこういう事があるそうだ。
但し、この段階では、海老の養殖も再開していたし、福建省は、養鰻の一大拠点でもある。昔のつてを辿って、水産ビジネスを再開したいと考えた。
そこで、昔、取引のあった水産公司にいた、曲氏を探してみた。
僕が福州研修を終えて数年後、その水産公司は経営不振となり、休眠状態になっていた。
社員は全員自宅待機の状態である。
曲氏に声をかけると、一緒にやりたいと言ってくれる。
1990年、福州研修最後の日に約束した、「もう一度一緒に仕事をしよう」という約束が、思いもよらず実現した。昔、一緒に仕事をした記憶が蘇ってきた。
あとは、曲氏が人間関係を辿って、水産庁関係者・水産公司を次々と紹介してくれた。
水産関係の人間は情が篤(あつ)い。僕をまだ憶てる人が何人もいて、「研修生だった水野が出世して帰ってきたぞ」と喜んで会いに来てくれた。
海老の養殖場、鰻の蒲焼工場、タコの加工場など、いろいろな工場を回り、宴会もよく開いた。
水産関係者はよく酒を飲む。
一度は、昼の宴会で白酒を飲みすぎ、大失敗をやらかした。
その日の飛行機を乗り過ごしてしまったのである。
昼食時に、水産公司の総経理から勧められるままに白酒を飲んだ僕は、出発まで30分程度の軽い仮眠を取るためにホテルに戻った。その時点では、全く酔いを自覚していなかったが、目がさめたのは夜7時。
レイト・チェックアウトを頼んだきり、僕が部屋から出てこないので、心配したホテルが、数名の服務員に部屋をチェックさせた様である。
ところが、全く反応が無い為、医者と追加の服務員が派遣され、僕が目覚めた時には、ベッドを服務員が取り囲み、医者が僕に聴診器を当てている状況であった。
但し、僕は、その翌朝には、広州市の国土局に行かなくてはならなかった。
前述した広州現法の現物出資の最終手続が予定されており、1年以上、苦労に苦労を重ねた成果が出る日であった。
目を覚ました瞬間、それを思い出し、顔面蒼白になった。
立つ事も辛いほどの酷い酔いだが、切羽詰った僕は、夜の町に飛び出し、タクシーを捕まえた。タクシーで広州に向かう為である。
当時、福州から広州までは高速道路が通じておらず、時間にして10時間、山賊が出る危険な道を通る必要があった。タクシーには、用心棒役の、頑強な男性が乗り込み、助手席に座った。
街灯も無い暗い山道をゴトゴト走るタクシーの後部座席で、ただただひっくり返っていた。
「これで、襲われたら一巻の終わりだ」という思いと、「朝の9時に広州に着けなかったら、社内でも大事(おおごと)になるぞ」という思いが交互に浮かんだ。
翌朝、無事広州に着き、難航を極めた現物出資も無事完了したが、周りの人間からは、「そんな危険な事は二度とするな」と散々怒られた。
タクシーの運転手は非常に真面目な人物であって、朝6時に広州に着いた時は、真っ赤に充血した眼で、「もう俺は力尽きた。道も分からないから、後はタクシーを乗り換えてくれ」と頼まれた。そんな感じで、必死に時間を守ってくれた初対面の彼に、心より感謝した。
廈門社長・所長を務めたのは2年半。
その間、曲氏の頑張りも有って、たくさんの水産関係者、貿易公司、工場等を紹介してもらったが、残念ながら、実現した水産関係の新事業は一種類だけであった。
この分野で、十分な実績が残せなかったのは残念だったが、得意な管理業務の枠を出て、畑違いの水産ビジネスをやろうとした僕の実力不足である。その限界を感じた僕は、役職を、香港現法の化学品駐在員に譲る事にした。
曲氏に廈門所長の交代を告げたのは、2002年の4月。
「水野が辞めるなら、ここにいる意味はない」といって、彼はその場で退職を決意した。
別れた場所も、昔と同じ温泉大廈。水産の商売を開拓し切れなかった無念さをかみ締めて、ロビーで握手をして別れた。
廈門所長の2年半の間に、忘れられない事がもう一つある。
所長代理であった王君の事故死である。
2001年の国慶節休みの期間を利用して、彼は社有車を使い、顧客数名を連れてドライブに出た。その帰り、トラックと衝突し、即死したのである。
彼が事故に遭ったとき、香港は土曜日で、僕は外出していた。
家に帰ると、ファックスが届いている。王君が事故に遭ったのですぐ来て欲しいという廈門事務所からの連絡である。
すぐにチケットを手配し、翌日廈門に駆けつけた。
廈門に到着し、部下が手配した車に乗ると、そのまま葬儀場に向かった。
日本とは違い、ガラス張りの棺に彼が安置されている。変り果てた姿に絶句した。
彼の母親、婦人が泣き崩れている。
言葉も無く挨拶をし、葬儀に参列し、火葬場に向かった。
前の週に会った時には、元気に廈門事務所のビジネスに付いて話してくれた彼が、形を無くしてしまった事が信じられなかった。
重苦しい気持ちのまま、夜の飛行機を手配し、香港に戻った。
悲しい気持ちは抜けなかったが、嫌でもやらなければいけない事がある。
彼の遺族と、保障問題について話し合う事である。
僕が所長就任時に作った社内規定では、営業時間外の社有車の使用は、所長である僕の許可取得が要求されていた。その為、彼の行為は社内規定違反である。
但し、事故が有った時は、客を接待していたのは確かであるし、彼のポジションは所長代理(常駐代表)であり、現地では、それなりの裁量権を持っていると判断される。
この点を、どう解釈するかが問題となった。
僕が、次に廈門を訪問したのは、葬儀から2~3日後。それまでの遺族との交渉は、部下が代行してくれていた。
ここで感情のもつれがあり、遺族が弁護士を立て、強硬姿勢に出てきたのである。
部下は、あくまでも、廈門事務所の事を考え、僕の作った規定を尊重して話をしてくれたのであるが、遺族は通常の精神状態ではないので、理屈が全く通らない。
最悪の状態で、僕との面談は始まった。
ただ、1時間半の面談で、遺族の姿勢は軟化し、弁護士の起用を取り下げてきた。
僕を信頼するので、判断して欲しいという。3日後の再会を約して、僕は廈門を離れた。
保障の支払いには、本社の許可がいる。3日の間に、あれこれ考え、会社に申請を上げ、何とか会社も遺族も納得する形で話を収める事ができた。
ただ、その後に知ったのだが、それから遺族間の慰謝料の配分で問題が生じ、何年も訴訟で争っていたようである。何とも、複雑で悲しい気持になる。
右腕であった王君の他界で、一時は廈門事務所の運営も危ぶまれたが、残ったスタッフが力を併せて頑張ってくれた。彼らの頑張りに、今でも感謝している。
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