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水野コンサルタンシーグループ代表水野真澄半生記【第一章:福建省・実務研修時代】

中国ビジネスレポート コラム
水野 真澄

水野 真澄

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2017年10月27日

1.福州到着
1989年7月。
六四事件の翌月に、僕は福建省の福州市に到着した。
1年間の実務研修の始まりである。
当時の丸紅の語学研修制度は合計2年間。中国研修生の場合、最初の一年間は台北で北京語を学習し、続く一年間は中国大陸の小規模店で実務研修という制度であった。
当時、自分を含めた三人の研修生が派遣されたのは、青島・南京・福州の三箇所。
中でも福州駐在員事務所は、日本人駐在員1名。中国人社員3名の一番小さな事務所であった。
今でこそ廈門(福建省の経済特区)から日本には直行便が飛び、福州と香港間も一日何便もの飛行機が飛んでいるが、当時は日本との直行便など望むべくも無く、香港・福州便も週に数便があるだけという状況であった。
辞令を受け取った時には、福州がどんなところか、まったく見当がつかなかった。
4月早々、丸紅台北支店の業務部長(研修生の監督担当)から、電話で研修地の連絡を受けた時、ショックで電話の受話器を取り落としそうになった。台湾に赴任した早々から、実務研修候補地の中で、一番行きたくないと考えていた場所である。単に、「不便そうな場所だから」という理由であったが。絶句している僕の気配を察した監督は、「大丈夫か。何か問題はあるか。」と心配そうに聞いてくれた。ただ、いくら問題があっても研修地は変わらない。観念して現実を受け入れるしか無い事は、自分自身で理解していた。
翌日からは、黙々と福州の資料を集める日々が続いたが、インターネットが有った訳ではなく、当時の台湾に、中国本土関係の書籍は限られていた。

日本語書店に行ってみたが、置いてある中国ガイドブックは、ほんの1~2種類で、発行も古く、殆ど使い物にならなかった。福州など、場所すら載っていない。
親に頼んで、日本から「地球の歩き方」を送ってもらったが、ここにもやはり載っていない。
結果として分かったのは、「不便な場所らしい」という点だけで、南京・青島に赴任が決まった、他の研修生がうらやましかった。

更には、赴任直前の6月に天安門事件が勃発。台湾のテレビは、一斉に天安門周辺を軍用車が走り回る映像を流しつづけ、この映像が僕の暗い気持ちに止めを刺した。
元々中国に行きたくて、研修生制度に応募したのであるが、台湾赴任早々、学校(私塾)の教師陣からは、「大陸はひどい所だぞ。そんなところに行くお前は可哀想だ」と毎日の様に吹き込まれていた。何しろ、当時の台湾は、授業で使用する最初の教科書の第一章には、「中国の首都は南京です」と書いてあるし、北京というと、「北京なんて場所は無い。北平だ」としつこく直されるような状況であった。中国(本土)に対する反感は、想像をはるかに超えていた。
彼らは、教師とは言っても、大部分は20代早々の女性、若しくは30代の主婦であり、中国本土に行った経験がある人間は殆どいなかった。彼らに対して僕は、「自分は、数年前に中国本土に行ったが、そこまでひどい所ではなかったぞ。そもそも行った事がないのに何で分かるんだ」と反論してみたが、「私は中国人だからお前より良くわかっている」と、いかにも理にかなっていない回答が返ってくるのが常であった。とはいえ、いくら理にかなっていない話でも、毎日の様に言われていれば、だんだんその気になってくる。まさに、暗示である。
その上、候補地の中で、一番気乗りしなかった福州、六四事件に対する台湾のセンセーショナルな報道と、矢継ぎ早に気が滅入る出来事が生じ、僕はすっかり落ち込んでしまった。
嫌だ嫌だと思い続け、牢屋に繋がれるような思いで、福州に到着したのが7月初旬、六四事件の1ヶ月後である。

到着した(旧)福州空港は、飛行場とは思えない小さな建物であった。僕が乗ったのは、上海経由の国内線だった事もあり、飛行機を降りて、ちょっと歩いたら、そのまま出迎えの人間が居る簡単な柵がある。到着後は、屋根の中を通りもしない。託送した荷物は、台車でそのまま柵の近くに運ばれ、そこらに放り投げられる。まさに田舎の空港であった。

出迎えに来てくれたのは、30代半ばの男性スタッフである。彼に連れられ、オフィス兼住居の温泉大廈(その後、温泉大飯店に改称)にタクシーで移動する事になったが、30分程度の距離である。
目的地に着くまでの間、車から、窓の外に広がる景色を眺めていたが、まさに、のどかな田舎であった。
ただ、福州は気温が高いと聞いていたが、建物が密集していないため、台北ほどは暑く感じず、思っていたよりも過ごしやすそうだ。
暫くすると、まばらにビルが見え始め、福州の街中に到着した事が分かる。更に、暫く走ると、目的地の温泉大廈に到着した。
温泉大廈は15階建てで、開業1年程度の新しいホテルであった。
このホテルは、中華・洋食レストラン、ジム・サウナを完備した一流ホテルという触れ込みであったが、ジムには運動機材が入っておらず、サウナは開業早々施設が壊れて使用停止になっていた。少々期待外れの感はあるが、少なくとも清潔な感じのホテルで、僕の赴任が、このホテルの開業後であったのは、不幸中の幸いだと実感した。
このホテルが出来る以前は、外資系ホテルは福州市内に無く、駐在員は、このホテルの正面にある華福賓館に居住していた。このホテルは、古くて汚い。そして部屋も狭いので、生活するには、温泉大廈とは比べものにならない苦労があったようだ。福州事務所の初代駐在員が、来客(出張者)を接待する際に、便所の蓋にまな板を置いてねぎを切り、即席麺を作って出した、という逸話も残っている。帯同の夫人がノイローゼになりかけた駐在員がいる、という噂を赴任前に聞いたが、当時の状況を想像すると、あながちデマとは言えない気がする。

ホテルロビーでチェックインし、部屋(13階)に荷物を置いたら、早速14階のオフィスに挨拶に出向いた。
丸紅福州代表処の看板が掛けられた一室に入ると、日本人1名・中国人3名の陣容が笑顔で迎えてくれた。緊張が少しほぐれた。
改めてオフィスを見回すと、ともかく小さい。それまで、東京本社と台北支店(その後、台湾会社に組織変更)しか知らない僕の目には、ホテルの一室を改造したオフィスは、なにやら秘密結社の様に映った。
当時の福州事務所は、温泉大廈の14階のスウィートルームと、隣のシングルルームの2部屋を借りてオフィスにしていた。
本来リビングである場所に、5個の机を置いて執務場所とし、ベッドルームのスペースには、コピー機などを置いて、コピー室兼物置としていた。隣のシングルルームは応接室代わりである。
福州事務所の陣容は、所長が不在(広州事務所長が兼務)。所長代理は入社4年目の駐在員。現地社員は、1名が出迎えてくれた男性社員であり、他は20才そこそこの女性社員2名である。それに研修生の僕が入る訳で、言い方は悪いが、おまま事のような事務所である。
この男性中国人男性は、僕が赴任して半年以内に退社し、国営企業に移籍してしまった。
代わりに採用したのが大学を卒業したての女性社員であった為、その後、更に素人集団ぶりに拍車が掛かる事になる。

オフィスに腰を下ろして30分も経たない内に、昼休みになり、所長代理の駐在員と二人で昼食を取る事になった。
食事をしたのは、一階の洋食レストラン。味は決して誉められたものではないが、ともあれ、住居内に中華料理以外のレストランがあるのは、ありがたい事である。
食事をしながら、福州の生活・会社での仕事についていろいろと聞いてみた。

福州事務所の年間取扱量(参考成約高)は US$ 3千万程度であるが、その内、三分の一が海産物(海老)、他の三分の一が化学品。それ以外は、金属・石材・繊維等という構成であった。
僕の担当は、海産物・金属・物資・会計という事になる様である。全体の仕事を、所長代理と僕が分業する事になるのであるが、化学品の様に、専門用語が多くてとっつきが悪いものは所長代理が担当し、比較的分かりやすい業務を僕に回してくれたという事らしい。
とはいっても、僕は入社後、本社の外国為替部で一年間輸出荷為替の取扱をした、という貧弱な業務経験しかなく、テレックスすらまともに打てない有様であった。いくら話を聞いても、業務のイメージがさっぱり湧いてこない。更に、経理知識も無いに等しいので、出張所の会計業務が出来るかどうかも甚だ疑問であった。一応、新入社員の時に、簿記3級は取得したが、過去問題を3年分憶えこんで、パターンを把握しただけで合格したので、基本的にはまったく内容を理解できていなかった。
そんな状況なので、僕がすぐに出来そうな業務は、せいぜい中国語の通訳程度である。
仕事を教えてくれる経験豊かな上司もここにはいない。
不安が募るが、ともあれ、ここに来たら逃げ場が無い。見よう見真似でもやるしかないのが現実であった。

又、僕のポジションは実務研修生であり、業務内容は駐在員とは同じでも、待遇が違う。1年間休暇も取れず、研修地(福建省)からは離れられない。これから一年間続く、不便な生活を思い浮かべると、到着早々ネガティブな気分になってしまった。
ともあれ、二人しかいない本社員が、職場・昼食・夕食と一緒にいると、数日で話題が無くなる事は明白で、他店の実例から見ても、日本人が二人という状況は、必ず人間関係が悪くなるらしい。翌日からは、お互い、プライベートに干渉しないようにしよう(行動は、極力別にしよう)と話し合い、昼食を終わらせた。

2.福州での生活の開始
最近つくづく思うのは、中国はすっかり便利で普通の場所になった、という事である。
勿論、治安面で問題がる場所や、内陸の小都市等の様に、まだまだ不便な場所もあるが、大部分の外国人が居住する地域(大都市)は、食生活・娯楽・物資等の面において、かなり便利で、ハードシップが少ない国になっている。
但し、今から20数年以上前は、一部の大都市を除いては、生活が本当に不便だったもので、その変わり様は驚くばかりである。
今から思えば、福州は、既に沿海開放区に指定されており、外資誘致の為にインフラ整備が進められていた場所の一つであるが、それでも、物資は不足していた。
最高級のホテルのコーヒーショップに入っても、レモンも無ければ牛乳もない。
「なぜレモンが無いんだ」と聞くと、「福建省ではレモンは採れない」と言われる。牛乳を頼むとお湯に溶かした脱脂粉乳が出てくる。「これではなくて、本当の牛乳が欲しい。冷たいもの」と頼むと、同じものに氷が入っただけで出てくる、という状況だった。
更に、物資の不足以上に困ったのが、通信・交通を始めとする、様々な生活環境である。電話がなかなか通じない、飛行機の便が悪い、娯楽が無い、衛生観念がまったく違う(今では考えられないが、当時は、街中も建物の廊下も一面痰だらけであった)等の点であるが、これらの不便が、積もり積もると精神的に参ってくる。
時間が経過するにつれて、徐々に、辛さが増してくるもので、慣れるという感じではなかった。

通信事情は、赴任前の僕が、一番気にしていた点であるが、赴任の1~2年前に、福州の電信局が日本製の交換機を輸入したとの事で、当時とすれば極めて良好。
国際電話もほぼ一回で繋がった。
ともあれ、温泉大廈の中にいれば、贅沢を言わなければ、生活に不自由は無い。但し、ホテルを一歩出たら、まさに別世界であり、その光景に思わず気が滅入る。そのため、赴任早々は、客回り以外は何時もホテルの中、という生活であった。

こんな感じで、不安だらけの気分で始まった福州の生活であるが、立ち上がりから生活面でトラブルが続いた。躓きの始まりは、居留証の取得である。
当時の制度では、実務研修期間は一年間で、途中出国が認められないため、日本でZビザと呼ばれる就労ビザを取得し、赴任早々、現地で居留証を取得する事となっていた。
但し、他の研修生は、すんなりとZビザが取れたのに、僕だけビザが取得できず、致し方なく、Fビザ(現在の制度では、Mビザに変更)と呼ばれる短期訪問ビザで入国した。
僕だけビザが取得できない理由は、招聘状が取得できなかった為という。
Zビザを取得する為には、当時、接待単位と呼ばれる中国企業(関係の良い企業に依頼する)から招聘状を取得する必要があった。福州事務所の接待単位は、華福公司という貿易会社で、ここは、華福賓館を経営する華福集団の傘下企業である。従来、華福公司と福州事務所は、ビジネスパートナーの関係であったが、僕が赴任する直前から、急に関係が悪化した様で、僕に対する対応は、嫌がらせの意味があったらしい。
関係が悪化した理由としては、「福州事務所のオフィスが、華福集団が経営している華福賓館から温泉大廈に移ったこと」、「暫く商売が出来ていない事」、更には「華福集団が人材斡旋業を開始し、福州事務所に人材を紹介したが、FESCO(外事服務弁公室)との関係を考慮した福州事務所が、紹介された人員を採用しなかった」というのが背景のようで、ほぼ、逆恨みの感がある。

赴任の翌日、再度招聘状を発行してもらうべく、男性スタッフと一緒に華福公司に挨拶に行ったが、招聘状を発行する意思はかけらも見受けられない。
いきなり喧嘩腰で、「何しに来た」、「招聘状は出せない」の一点張りである。赴任早々、いやな目に会い腹が立ったが、それ以上に、状況が把握できないため、戸惑った。
今から思うと、接待単位を切り替えれば良いだけだが、経験の浅い福州事務所の人間には、その判断が出来なかった。
華福公司を出ると、直ぐに公安局に行くが、「招聘状が無ければZビザは発給できない。このFビザの期限は3ヶ月だ」という、(今から思えば常識的な)回答をもらっただけで、状況の進展は見られなかった。ともあれ、基本的な法的知識も無い当時の僕は、自分の滞在自体が否定された様な気分になり、途方にくれると共に、不安な気持ちに拍車がかかった。
今だったら、「定期的に香港に行けるから、却ってラッキーだ」と考えるところであるが。

結局のところ、僕が滞在した一年間、最後まで招聘状は入手できなかった。
それなら、3ヶ月後に香港に出張できるか、というひそかな期待もあったが、普段は怠け者で、のんびり屋の男性スタッフが、よせばいいのに張り切って、又、福州の公安も変なところで融通を利かせてくれ、福州で3ヶ月のFビザ延長が出来てしまった。
更に、1月・4月に広州でビザの更新が認められ、全く香港に行けないと嘆いていた時に、やっと10ヶ月が経過して国内での更新が不可能となった。
なにやら、「悪い所取り」という感のあったビザの顛末であったが、3ヶ月のFビザで、出国せずに10ヶ月中国に滞在した事になる。更に、1月に広州でビザ更新を行なった際には、シングルからマルチのFビザに切り替えができてしまった。研修生は、原則として出国が認められないので、マルチビザへの切り替えは無駄になってしまったが、公安で、何故これ程柔軟な対応を受けられたのか、未だに不思議である。

次に躓いたのが、引越し荷物の引取である。
これは、正直言って、あまりの非効率さに辟易してしまった。
僕は引越し荷物を船便と航空便の二つに分けて送付した。
船便にはワープロ、ビデオ、ラジカセ、その他簡単な電化製品を、航空便には、先輩の研修生のアドバイスに基づいて、レトルト食品を約30食分詰め込んで送付した。
赴任後から数日経ったある日、オフィスに航空貨物到着のはがきが届いた。
意外に順調だと喜んだが、それからが大変であった。
貨物受け取りのステップは、まず、「はがきを持って、飛行場に行き、貨物係のスタンプをもらう」。次に、「オフィスの近くの税関に行き、スタンプを押してもらう」。その後、「再度空港に行って貨物を引き取る」。その上で、「貨物を、再度税関に運び、検疫を行なう」。この検疫を通って、初めて荷物を引き取る事ができる、という段取りであった。
空港と所管の税関の距離は車で約30~40分。「何回、空港と税関を往復させるんだ」。という気分になった。午後一で荷物の引取作業を始めたにも拘わらず、荷物を引き取った時にはもう夕方になっていた。
但し、航空貨物はレトルト食品が殆どだったので、特に問題なく引き取れたが、船便の引取は大変であった。
理由としては、電化製品が入っていた事や、生活用品の保税輸入を行なうに際して、手続面で問題が生じた事、ミュージックテープが70本程度あり、全部に関して内容確認を求められた事、パッキングリストにラジカセを「ラジオ」と記載してしまい、虚偽申告だといわれた事、等などである。結果として、税関から殆ど嫌がらせのような対応を取られ、荷物を引き取るまでに、3週間程度かかってしまった。

到着早々、ビザと通関で散々いやな目にあい、福州の人間がすっかり嫌いになってしまったが、それから1年経って、荷物を再度日本に送付するときは、税関の対応は180度変わっていた。税関の担当者が直々にホテルまで来てくれ、そこで通関手続を終わらせてくれたのである。
とは言え、僕が研修中に、税関に対して特別な事をした訳ではない。ただ、業務で何度か税関に足を運び、通関を行なったり、時折挨拶に出向いたりした程度である。つまり、1年間の滞在で僕自身が福州に馴染み、担当者と面識が出来、一応、仲間として認められたという事であろう。

ともあれ、躓きながらも僕の福州での生活が始まった。
生活を始めるにあたって、先ずやった事は、引越しと自転車の購入である。
引越しとは言っても、単に同じホテルの中で部屋を変えただけであるが、ツインに小さな出っ張りのついた部屋に移る事が出来た。ビジネススウィートという呼び名ほど、たいした部屋ではないが、それでもツインよりは少し広い。
部屋換えにあたってはちょっとした背景がある。当日チェックインして早々、男性スタッフが「どの部屋だ」と聞く。部屋の番号を言うと、なにやら怒り出すので、理由を聞くと、「数ヶ月前にホテルで発砲騒ぎがあり、3人程死者が出た。それが、その部屋ではないか」と言うのである。そういわれてみると、絨毯に血のあとが付いているような気がして(恐らくただの汚れなのだろうが)、なんとも気持ちが悪い。そこで、ホテルに苦情を言って、ちょっと条件の良い部屋に替えてもらう事となった訳である。
福州から車で一時間弱の所に、福清という場所があるが、ここは、当時、蛇頭の本拠地と言われており、治安面で問題があった。僕が赴任して早々、日本で偽装難民騒ぎがあり、その本拠地となったのが福清である。この事件の際には、新聞社・雑誌社の人間が次々と取材にやってきた。
しっかりした取材ノウハウを備えた一流新聞社の記者もいたが、中には右も左も分からず送り込まれた若い記者もいて、丸紅オフィスに「私はどこに行けばよいのでしょう」と心細い声で電話をかけてきた事もあった。話は逸れたが、当時の福建省はこの様な状況で、福州でも、たまに、黒社会絡みのいざこざが有った様だ。ホテルでの発砲騒ぎは、その一つだったらしい。
ともあれ、部屋の交換によって、部屋が広くなったのは良いが、新しい部屋はオフィスと同じ14階。それもオフィスの正面の部屋になってしまった。5秒で出勤できるのは良いが、オフィスの目の前が住居というのはなんとも落ち着かないものである。勤務時間外でも、商売でトラブルが生じている時などは、気になってついオフィスに行ってしまうので、気が休まらない事おびただしい。やはり、オフィスと住居は別の階にすべきだったと、後々後悔したものである。

部屋が決まると、今度は自転車を買おうと思い立った。
当時はタクシーが少なく、しかもメーター式ではなく、交渉で価格が決まった。ひどいポンコツ車の割には料金が高く、最低料金が10元。5分ほど走ると20元以上取られた。最初は、外国人料金かと思ったが、中国人と一緒に乗るときも、金額的には大差無かった。ともあれ、タクシーが不便で高い事や、生活圏がそれ程広くない事を考えると、自転車があると便利ではないかと考えた訳である。この話をすると、男性スタッフが一緒に買いに行ってくれるというので、さっそく、百貨店に出かける事になった。
連れて行ってもらったのは、福州で一番大きな百貨店であったが、品揃えは悪く、自転車も黒のごつい自転車が数台あるだけだった。サイズが限られていたが、その中で一番体に合っているものを購入した。価格は200元程度であった。当時、1元が25円程度(当時は二重為替制で公定レートが25円程度。実勢レートは17円程度)だったので、日本円にすると5,000円程度である。当時の日系企業のスタッフの給料が200元程度だったので、ほぼ月収に相当する高級品という事になる。その割には、昔の豆腐屋さんという風情で、旧式の自転車であった。
購入すると、男性スタッフが「自転車を買ったら、先ず修理屋に行く必要がある」と言う。「何で新品の自転車なのに修理するのか」と聞くと、「購入したての自転車は、全体的にゆがみやタイヤの空気漏れが生じている。先ず修理屋に行って、直してからでないと乗ることが出来ない」という回答である。なんとも妙に思ったが、直ぐに近くの自転車修理屋に行き、30分程度かけて修理を行なった。「荷物の引取りといい、買い物といい、何毎も不便で時間がかかるなぁ」と、少々げっそりである。
勿論、中国も今ではそのような事は無い。2000年にその男性スタッフと再会した時、彼から「もう中国では、新品の自転車を修理屋に持っていかなくても良くなったぞ」と言われ、不便だった当時の話に花を咲かせたものである。
その後、何度か自転車には乗ったが、どうにもサイズ合わない。品揃えが悪かった為、一番小型のものを選んだにも拘わらず、大きすぎて十分足がつかないのである。更に、福州の街は信号も少なく、道路にはトロリーバス、車・バイク、自転車・輪タク、時には牛が何重にも走っており、道路を横切るのも、カーブするにも慣れないうちは怖い。すっかり、乗るのが億劫になってしまい、2か月ほど駐輪場に放っておいたら、盗まれていた。
その後は、新しい自転車を買う気も失せ、近場を異動する際には、輪タクで移動する事にした。
輪タクは、先ず値段交渉から始まるが、僕が乗るときは、概ね1ブロック5元程度であった。それでもタクシーよりは安いので、特に不満も感じていなかったが、後日、中国人の若い男性と2名で乗った時は、15分程度の距離を二人で乗って1元しかかからなかった。僕も、福州に住み着いている人間を装い、中国語で交渉している訳であるが、交渉が伴うものに関しては、外国人料金と中国人料金の差はなんとも激しいものだ、と妙に感心してしまった。

3.生活もそれなりに楽しむ
最初は、やる事なすことうまくいかず、躓き続きの福州であったが、時間が経過するにつれて、生活にも慣れ、だんだん楽しみ方も憶えてきた。
何分、のんびりした町なので、あくせくしなければゆったりとすごす事ができる。先ずは、頭を切り替え、体のリズムを街に合わせる事である。
当時、福州事務所の昼休みは3時間有った。午前が朝の8時半~12時、午後が3時~18時半というのが勤務時間である。昼休みが3時間あると、さすがにいろいろな事ができる。
赴任から3ヶ月程度は、夏だった事もあり、昼休みにホテルのプールで泳いでみた。
小さいプールであるが、昼休みにプールというのはなんとも優雅な気がする。
10月からは、さすがに涼しくて泳げなくなり、部屋でゆったり過ごすようになった。昼休みになると、先ずジャージに着替え、ご飯を炊いてのんびり食事(缶詰・レトルトが活躍した)。
その後、1~2時間昼寝をして、シャワーを浴びてから午後の仕事、というちょっと浮世離れした生活を送る事が出来た。
当時、会社に日本食送付制度というものが有った。これは、ハードシップが高い地域(日本人が生活するに際して不便な場所)に駐在する社員のために、年に2回、会社が日本食を送付してくれる制度である。この制度では、代金は個人負担であるが、運送費や輸入関税は会社が負担してくれるので、食材が不足している地域に居住する人間にとってはありがたい制度である。
この制度を利用して、日本そば、即席麺を大量に購入した。
ただ、喜んで開封すると、到着したインスタントラーメンを始めとして、到着した食品の殆どが賞味期限切れ・若しくは、切れる寸前であった。
特に、インスタントラーメンは、明らかに油が回っている。腹は立ったが、日本食材は貴重品なので、我慢して食べた。到着直後は、7食連続即席麺である。さすがに、油が回った即席麺を7食連続で食べると、最後には気分が悪くなり、その後は食べられなくなってしまった。
後に、他社を含めて、色々な駐在経験者に日本食送付制度に関する状況を聞いてみたが、かなりの確率で、到着した食材が賞味期限切れという経験を持っている。誰の責任かは分からないが、生活条件が劣る地域で生活している人間にとっては、この制度で到着する食品は本当に貴重なものである。故意か管理不足かは分からないが、品質が劣化したものを送付するのは勘弁して欲しいと切実に感じた。

話はそれるが、福州に赴任して以来、無性にざるそばが食べたくなった。
氷もないし、どうやってそばを冷やそうかと思案したが、結局バスルームの水で冷やす事とした。水道水は飲めないからやめた方が良い、とスタッフから止められたが、食べたい気持ちが勝った。
又、卵ご飯も食べたくて仕方が無くなり、街中で買ってきた卵を使って食べた。これもスタッフからは反対された。以前の研修生で、生卵に当たり、病院に担ぎ込まれた人間がいたらしい。これも、スタッフの反対を聞かず、毎日の様に食べたが、幸いな事に一度も腹は壊さなかった。

そんな感じで、10月以降、昼食にそばや即席麺を食べる日々が数ヶ月続いたが、その後は3人のスタッフと一緒に食事をする事になった。
どうやら、スタッフの人達が、「水野は毎日粗末なもの(即席麺の事)を食べていて可哀想だ」と話し合い、食事に誘ってくれるようになった様である。当時、彼らは、温泉大廈の従業員食堂でご飯をテイクアウトしていた。彼らと一緒に食堂に行き、ご飯を僕の部屋に持ち帰り、4人で僕が持ち込んだ香港映画のビデオを見ながら食事した。
温泉大廈の従業員食堂は、10種類くらいのおかずが揃っており、好みのものをよそって貰うシステムである。味はさておき、魚・肉・野菜など品揃えは豊富であった。皆な、金属製の大きなボールを持って食堂に行き、先ず、ご飯をよそって貰い、その上に何種類ものおかずをかけて食べていた。
この様な食べ方をする理由は、容器が一つですんで簡単という事もあるが、米の質によるところも大きい。福州で買う米は、香りが無く、冷めるとすぐぱさぱさになって固まってしまう。従業員食堂では、炊いたご飯がブロック状に切り分けてあり、これをトングではさんでボールに入れてくれる。「ご飯をよそう」というのは馴染んだ感覚だが、「ご飯をつかむ」というのは、福州で初めて知った感覚である。
この米は、さすがにぱさぱさで味も悪いので、ご飯だけでは食べられない。よって、おかず、特に汁気のあるものをかけて、味と汁気を馴染ませて食べる必要があるのである。
福州に到着した初日に、僕はまず市場に行って、一番品質がよさそうな米を買った。食べる前は、米なら大体どんなものでも食べられると考えていたが、その考えは甘かった。近所の市場で買った米はさすがに不味く、どうにも食べる気にならなかった。そこで、自由市場という、当時、比較的品質が良いものが揃うと言われていた場所に出かけてみたが、それでも、米を磨ぐ前に、10分以上かけて小石を取り除かなくてはならない。更に、どれだけ磨いでも、水が白濁したままという代物である。

それから数か月経って廈門に出張した際に、免税店でタイ米・日本種米が売っているのを発見した。今でも香港のスーパーで買える、安いブランドであるが、それでも「さすが経済特区だ」と感心した。
早速、一袋(5Kg)買って、担いで福州に戻ったが、現地の米に比べると格段に美味しい。それからは廈門出張が楽しみで、毎回米を5Kg、10Kgと買って、抱えて帰ってくるようになった。
最初は、「福州の米も美味しいではないか」と言っていたスタッフも、廈門から持ち帰った米を食べさせてみると、一様に「こちらの方が美味しい」という結論になり、米は僕が炊いたものを使う様になった。スタッフには、タイ米が一番人気であった。
代わりに、おかずはよくスタッフにおごってもらった。

もう一名の日本人(所長代理)は正規の駐在員である為、12階のスウィートルームと、隣のシングルルームという2部屋を住居にしていた。シングルルームはキッチンとして使用しており、コンロ・電子レンジなどが備えられていたので、たまにここを借りて調理した。ただ、あまり頻繁に人の部屋を使うのは気がひける。よって、基本的には自分の部屋で料理する事になるのだが、調理用具はトラベル用のラーメンポットと小型炊飯器だけである。ただ、このトラベル用のラーメンポットがなかなか優れもので、意外に早く温度が上がる。これを使って、ラーメン、うどん、スープなど、色々なものを作った。
一度、廈門出張に行ったスタッフが、大きな渡り蟹を二匹買ってきてくれた事がある。
一匹は、すぐにラーメンポットでゆでて、そのスタッフと二人で食べたが、もう一匹は食べきれず、仕方がないので、風呂桶の中に入れておいた。やる餌も無かったが、数日間生きており、風呂桶の中を歩き回っていた。夜には、風呂の中からかさかさという(歩きまわる)音がよく聞こえ、少々、情が移ったものである。

福州での生活は、前述の通りホテルで過ごす時間が多く、ひまを持て余し気味であった。とは言え、スタッフも、そうそういつも構ってくれる訳ではないし、もう一人の駐在員も、廈門事務所の開設準備に忙しく、福州不在の事が多かった。
そんなこんなで、一人で過ごす時間が多かったが、六四事件の直後で、風紀管理が厳しく、娯楽らしい娯楽も無かった。一応、ホテルの2階にはスナックめいたものがあり、日本語のカラオケソフトが入っていたが、店の人間が話し相手になってくれる訳ではなく、一人で行って歌う気にもならない。よって、業務時間後は、本を読むか、ホテルの服務員と長々と無駄話をするのが日課となっていた。
人の勧めも有って、僕は、福州に日本語の本を一切持ち込まず、英書のみ10数冊を手荷物で持ち込んだ。助言をくれた人曰く、「中国語研修生は、英語が苦手な人間が多いが、英語と中国語が同水準に話せて初めて価値がある。英語に馴染む為には、極力日本語を使うのを控えなさい」という事で、僕も「それは一理ある」と納得し、助言に従う事にした。ただでさえ、洋書は読みづらい。難しいものを買ったのでは、一冊も読みきれないのは明白である。福州赴任前に日本の書店を回り、娯楽性の高いものを選んで購入したのだが、それでも読むのにおびただしく時間がかかった。更に、面倒くささが先に立ち、さして興味も湧いてこない為、往々にして30分も読むと飽きてしまう。結果として、一年間で読み終えたのは10冊程度であった。又、ヒアリング能力の向上のために、洋画のビデオを数本持ち込み、字幕を隠して見ていたが、思うようにヒアリング力の向上が実感できず、いらいらする事が多かった。こんな感じで、中国語だけでなく、英語の取得の為に、色々な策を労したが、どの程度成果があったかは、はなはだ疑問である。
一方で、中国語は生活の必要にかられて随分上達したと思う。
既に書いた様に、当時の福州は娯楽が乏しいので、就寝前に、同じ階で働いているホテルの服務員と、毎日の様に無駄話をしていた。服務員は、数人が交代で勤務にあたるが、概ね20歳そこそこの女性である。お互いに年齢が近いし、何より、夜はどちらも暇なので、服務台の前(エレベーターの前)で、毎日2~3時間立ち話をした。結果として、ホテルの服務員達とは随分親しくなった。たまには、服務員の控え室に入って、10人位の服務員達と雑談をしたり、遊びに行く約束をしたりした。一度、マネージャーに見つかって、彼らが怒られてしまい、申し訳ない思いをした事がある。当時の中国では、まだ、外国人と中国人の接触は、歓迎されていなかったものだ。2000年に温泉大廈に泊まった時に、偶然、その内の一人がマネージャーになっているのを発見した。彼もまだ僕の事を覚えてくれて、昔話に花を咲かせたものである。

当時は国際電話代が高かったので、めったに国際電話は掛けられない。更には、福州に在住する数少ない日本人とは、殆ど交流を持たなかった。結果として、僕の生活の大半は北京語となり、赴任後10ヵ月程経った頃には、ひとり物思いに耽るときも、北京語で考える事がまま有った。
但し、いくら上達したとは言え、母国語のレベルには程遠い。最後の数ヶ月には、日本語に飢え、これがストレスとなり、軽度の情緒不安定に陥った。
休日や、平日の夜に一人で部屋にいる時は、日本語が話したくて我慢できなくなり、国際電話をかけまくってしまう。最後の3ヶ月は毎月の電話代が35~40万円という、非常識な額になってしまった。給料を、殆ど意味も無い電話に使ってしまった訳である。一度などは、会社の寮に電話をかけ、誰でもいいからと同期を呼び出してもらったが、間の悪い事にそこに居合わせたのが「癖のある」人間で、いきなりけんかになってしまった。けんかの内容は、今から思えば些細な事であるが、一時間半程言い合いをした挙句、結局4万円の電話代になってしまった。
また、夜気が付くと、業務用テレックスの前に座り、発信するでもない文章を打っている事もあった。日本との窓口になるテレックスが、友達のような気がしてしまうのである。
日本語が話せない。休暇が取れない。更には、研修地から離れられない。そういったストレスが積もり積もって、最後の数ヶ月に爆発した、という事だと思う。
当時、知人が、「脱獄囚というのは、刑期が残り短くなったときが一番多い。最後の一年、という時に、我慢が出来なくなってしまうのが人間心理のようだよ」と言っていた。真偽の程は定かではないが、その時の心理状態を思い出すと、「さもありなん」という感じだ。
あれから時間が経過して、通信事情は劇的に変化した。国際電話はすっかり安くなり、携帯電話・E-mailも普及している。あの当時、少なくともE-mailがあれば、不便な生活の中でも、もう少し安らかな精神状況でいられたのではないか。何よりも、最後の3ヶ月で使った100万円以上の電話代で、それ迄の貯金が無駄になってしまった。何とももったいない話である。

それはさておき、日本語がろくに話せない環境での研修は、語学の習得に有用であったのは確実である。但し、身についた語学も、使わないとすぐに衰える。
一旦帰国してから、香港に赴任するまでの7年間、ろくに語学のメンテナンスを行なわなかったため、香港赴任時には、北京語がなかなか出てこない状況になってしまった。香港では北京語を使用しないので、広州・深圳出張などの折に、徐々にリハビリを行った。赴任から1年経過した時には、最盛期の6~7割程度の水準にまで回復したが、努力の欠如が災いして、それ以上の改善が見られない。錆付く前に、日頃から気を遣っておくべきだったと反省することしきりである。

4.不便な生活を思い出す
不便な生活というのは、その最中にいる時は辛くて仕方が無いのだが、過ぎ去ってみると妙に懐かしいものである。
当時の福州の生活は、日本と生活のギャップがありすぎて、自分の意識が付いていけず、外国というより、夢の中に居るような感じで捉えていた節がある。
生活しているときは、我慢しても我慢しても、一向に時間が過ぎていかないと苦しんでいたが、今思い出すと、なんとも懐かしい、ほほえましい毎日だったように思える。
僕の福州に対するイメージは、老酒の様なもの。ゆっくりと、時間が街の中で熟成されていく。まさに、保守的で伝統的、そしてのどかさと暗さを併せ持っている。これが、僕の福州のイメージであり、老酒のそれに一致する。
僕が生活していた時から随分と時間が経ったため、今では、福州の街もすっかり変わってしまったが、福州の街の本質は変わらない。僕の福州に対するに印象は、今でも同じである。

前述の様に、福州滞在中、僕はプライベートの時間を持て余していたが、勤務時間は忙しいのか暇なのか、なんとも判断つきかねる状況であった。
基本的には、福州事務所はそれ程の商売があるわけではなく、日常業務はきわめて暇であった。当時の商社の業務交信には、テレックスが主に使われていたが、仕事が少ないので、テレックスがなかなか来ない。
平均すれば、1日30本程度の入信が有ったと記憶しているが、その中には本社からの為替の連絡、本日のニュース(野球・大相撲の結果報告を含む)、単なる参考情報の提供、こちらからの商売のオファーに対する断りなど、商売に結びつかないものも少なからず入っているので、実質的な業務交信は、1日10~15本程度といったところである。
狭いオフィスに社員が4名、ほぼ無言で座っているが、基本的には全員テレックスが鳴るのを待っている。苦行僧のような気分になり、辛さに耐えかねた頃に、カタカタとテレックスが鳴る。「来たぞ!」と叫んで皆なで嬉々として見に行くと、「本日のニュース」だった、というような事が良くあった。
僕も、赴任早々は全然テレックスが来ないので、オフィスに座っているのがかなり辛かった。暫くすると、辛さに耐えかねて、飛び込み営業を繰り返したが、箸にも棒にもかからない。何分、商品知識も無いし、本社の所管営業部のバックアップも無いので、ガキの使いに毛が生えたような状況である。隣では、20歳そこそこの女性現地社員が毎日の様に商売を決めており、羨ましいやら、情けないやら、何とも言えない気分になった。
ほとほと嫌になってしまったが、ごく稀に商売が決まる事がある。金額的にはそれ程たいした額ではないが、それでも嬉しい。こんな感じで、たまに決まる商売をよりどころに、日々を過ごしていた。更に数ヶ月たつと、次第に幾つかの本社営業部から目を掛けてもらえるようになり、商売も徐々に決まるようになっていった。その頃には、福州・廈門にも、幾つか、個人的に関係の良い公司が出来てきたので、少し胸を張って客回りができるようになった。まあ、客観的に言うと、半年掛けて、やっと半人前になったような状況ではあるが、それでも自分の成長を感じて満足していた。

平日の業務はこの様な感じで、業務の密度が薄かったが、休日のんびりできたかというと、これがまったく休めなかった。
何故かというと、土曜日が半日出勤である上に、ホテル側が、土曜日の午後にオフィスにかかってきた電話や来客を、全て僕の部屋に繋げてしまうので、実質的に終日営業と同じ状況であった。更には、日本人の出張者は、殆どが日曜日に到着するので、出張者が来ると、出迎え・アテンドで、日曜日も休めなくなってしまう。特に、9~11月は海老の収穫・出荷時期にあたるため、3ヶ月間、一日も休めなかった。
確かに、休日に一人で部屋に居ても気が滅入るので、出張者がいた方が、気がまぎれてありがたいのは確かであるが、全ての出張者が年上なので、僕もそれなりに気を遣う。
さすがに、11月の後半は疲労困憊したものである。
「業務がさほど忙しくないのに休めない」という状態は、体にとっても精神にとっても、一番辛いというのが良く分かった。

出張者の出迎え、見送りと一言で言うが、当時の福州ではこれが一苦労であった。特に、出迎えだ。
旧福州空港は立地が悪く、天候が悪いと、すぐに着陸予定の飛行機が、廈門・上海まで行ってしまう。僕自身、実務研修時代は、4回しか福州行きの飛行機に乗らなかったにも拘わらず、その内2回、福州に着陸できず、行き先が上海に変更になってしまった。
一旦、待っている飛行機の行き先が変更になってしまうと、その後の到着予定の確認が一苦労である。先ず、空港には掲示板がなく、今後のスケジュールどころか、延着・目的地変更の事実自体が分からない。公衆電話も無い。空港関係者と思しき人間に聞いても教えてくれない。
この様な状況で、遅い遅いと待っていると、誰とも無く「飛行機は遅れるらしいぞ」と話だす。周りの人間に聞きまわり、事実確認をすると、40分かけてオフィスに戻り、インフォメーションデスクに電話を掛ける。とはいっても、番号が一つしかなく、質問が集中するのでめったに繋がらない。受話器を肩に挟み、右手はダイヤル、左手はフラッシュボタン。このポーズで30分ほどダイヤルを押し続けると、やっと繋がる。繋がっても、要領よく質問が出来ないと、すぐに切られてしまう、えらく高飛車なインフォメーションである。
やっと繋がっても、フライトの新しい到着予定が決まっていないと「没決定(決まっていない)」の一言で瞬時に電話を切られる。
そんな感じで、空港とオフィスを、車に乗って何往復もして、やっと出迎えができるのが当時の状況であった。一度、延着が生じると、出迎えも1~2日掛かりの大仕事である。
更に、飛行機のチケットに関しても、「発券されているのに、該当する飛行機が無い(まだ運行していない)」という事もあった。
今からすると、嘘のような話が、当時の福州では常識だったのである。
ともあれ、出張者の出迎えは、基本的には僕の役目でもあったので、何度も会社のロゴの入ったボードを抱えて空港に行った。ボードを抱えて歩いていると、ホテルの服務員達から「また行くのか。頑張ってこいよ!」と声を掛けられ、空港では、物見高い中国人から「これはお前の会社のマークか」と話し掛けられる。あまりに皆から好奇心に満ちた目つきで見られるので、うっとうしいのは確かであるが、僕が注目を集めるイベントであったのも確かである。

話は変わるが、僕は日本料理が好きである。
とはいっても、学生の頃までは、特に和食党であった訳ではない。
何時からこれほど執着を持つようになったのか、と考えると、やはり福州の1年間が原因の様である。今では、僕が住んでいた温泉大廈を始めとして、一流ホテルの中には、どこでも日本料理店が入っているし、街中の日本料理店も少なくない。
但し、当時の福州には日本料理店は無く、自分の部屋で作るざるそばと、レトルト食品が、食べる事ができる唯一の日本食であった。
最初の数ヶ月は、日本料理に対する欲求は特に生じず、ホテルの中華料理や、持ち込んだレトルトカレーで満足していた。
その後、11月後半に、関係会社である海老専門商社の人間(3名)と福建省の工場を回った事が有るが、その際、工場からお土産にもらった二級品のアイスブロックを使って、海老の寿司だけ100個ほど作った事がある。僕も含めた男3人が、早々に仕事を終わらせ、作り始めたのであるが、誰も作り方が分からない。ああだこうだと議論を重ね、何とか完成させて、所長代理も含めた男5人で食べてみた。他の人間は、さして感動は無い様であったが、4ヶ月間日本料理から遠ざかっていた僕はいたく感激し、「これは美味い」と喜び、黙々と海老寿司を食べ続けた。このとき既に、味覚はかなり狂っていたのであろう。
この様な、日本料理窮乏経験がもととなって、日本料理に対する欲求が徐々に嵩じてきたのだが、まともな日本料理を食べる事ができたのは、翌年になってからである。
翌年1月に、パスポートの期限が切れたので、日本領事館のある広州に出張が認められた。本当は香港に出たかったが、広州でも当時の僕にとっては十分な大都会である。
「日本料理を食べて、買い物をするぞ!」と喜び勇んで広州に向かった。
パスポートを更新するだけなので、なんとも気楽な出張である。
一週間弱は掛かる筈なので、やりたい事を、数日前から思い描いて喜んでいた。
出張当日。福州から広州への飛行機が2時間ほど遅れ、空港に到着したのは夜7時頃。ホテル到着は夜8時前である。
広州空港には、広州出張所が手配してくれた花園酒店の車が出迎えに来てくれていた。
実は、大学3年生の中国旅行(この時から4年前)の際に、僕の服装があまりに汚かったので、花園酒店・中国大酒店は、中に入れてもらえなかった。その時、僕が着ていたのは、汚いTシャツと短パン。広州にたどり着くまでの3週間、これらの衣服は洗面所で手洗いしただけで、かなり薄汚れていたので、高級ホテルが中に入れたくない気持は十分理解できる。
それから4年が経過して、僕が入館を断られたホテルの人間が、寒空の中、2時間も僕を待ってくれている、というのは何とも感慨深い。社会的な地位はまだまだ無かったが、それでも4年前から比べれば、随分の出世である。「寒かったぞ!」というホテルの人間に、「4年前には君達のホテルは、僕を中に入れてもくれなかったぞ」と言って、車中で笑ったものである。

話は逸れるが、それから十数年たち、香港に赴任した時は、僕の社内のポジションは年相応に上がっていたが、会社の経費削減要求が厳しくなったので、宿泊できるホテルのランクは下がってしまった。研修生でも、一流ホテルに泊まれた当時は、古き良き時代であった。

ホテルに着いて、直ぐに広州出張所に電話を入れると、今日はもう出社しなくてよいという。早速、一人でタクシーに乗り、唯一日本料理店が入っていた、ホワイトスワンホテルに直行した。
頼んだものは、天ざるそばと、とんかつと熱燗。
天ざるそばを食べて熱燗を飲んだら、思わず目頭が熱くなってきた。一人で、とんかつを前に、熱燗を飲みながら泣いている若者は、傍から見たら不気味だろうが、ともあれ、後にも先にも物を食べて泣いたのはあの時だけである。
その日は、食事が終わるとホテルに帰り、早々に寝たが、なんとも満足な気分であった。
「広州滞在中は、毎日食べに来るぞ!」と心に誓った僕であったが、世の中、そう巧くはいかない。
翌朝、出社してみると、所長以下、5名の駐在員が歓迎してくれた。特に、総務、機械、金属部の駐在員3名は、「昨日は一人で飯を食わせて申し訳ない。水野一人だと気の毒だから、滞在中は、この内の誰かが夜は付き合ってやるな」と言ってくれた。
それ自体はあり難いことだが、「でも日本料理は高いから、他のものを食べようね」という断り付き。「一人でいいから日本料理が食べたい」というのが切実な希望であったが、そうも言えず、あり難く駐在員各位に付き合ってもらう事となった。
日本料理は食べられないが、毎晩、十分に冷えたビールや、美味しい中華鍋が食べられたので、それなりに満足であった。レストランで冷えたビールが出てくるのは、広州では常識であったが、当時の福州では貴重な事である。よく冷えていたためか、その時飲んだ珠江ビールが、何とも美味しく感じられた。

ある晩は、駐在員宅ですき焼きを作って食べてみた。暇な僕は買出し係を引き受けた。業務時間中に中国大酒店で牛肉と日本酒を買い、タクシーに乗って市場に行き、野菜・卵・豆腐を調達した。因みに、当時の福州温泉大廈の売店でも、ごくたまに日本酒が買えたが、保存が悪く、既に、酢のようになっていた。当初、売店に行って、「酸っぱいぞ」と言ったら、「日本酒は酸っぱいものだ」と言われ、「冗談を言うな。俺は日本人だから知ってるぞ」と言ってみた。とは言え、他に在庫が無く、交換しようもない。やむなく、茶色く酸っぱくなった日本酒を、一人で一升飲み切った。
広州で買った日本酒は、何のことない大衆酒だったが、それでも、酸っぱくない日本酒が買えたので、当時の僕は大感激だった。
夜7時に駐在員宅に集合し、男3人でビデオを見ながらすき焼きをつついた。
三人とも料理に縁が無いため、しょうゆと砂糖と酒の調合が上手くいかない。
甘い、辛いと言いながら、調味料を混ぜ続けていると、日本酒が半分ほど無くなっていた。
その段階では、まだビールを飲んでいたので、5合の日本酒は全て鍋の中に入った事になる。かなり時間を掛けて大量に食べたのは確かであるが、酒が5合も中に入ったすき焼きというのは、常識的に考えればとても美味しいとは思えない。但し、これもたいそう美味しく感じたものだ。
味覚が鈍っている、というのは幸せな事だ。

研修から日本に帰った直後は、「あそこのとんかつは美味しい」、「あそこの蕎麦は美味しい」と他人が言うのを聞くと、理屈ではわかっても感覚が付いて行かなかった。福州研修の1年間で、料理とは、「食べる事ができるかどうか」という問題になってしまったのである。日本料理にしても、「食べられれば幸せ」という世界で完結しており、味を比べて美味しいか否かを判断する感覚は、完全に忘れてしまっていた。
帰国後数ヶ月すると、すっかり味覚が元に戻り、僕自身が「あそこの天麩羅じゃなきゃだめ」とかうるさい事を言い出す様になってしまった。そうなると、何を食べても幸せになれた、あの頃が懐かしくなったものである。

5.忘れられない水産関係の人々
僕の福州時代を語るには、水産関係の話は避けて通れない。
赴任早々、割り当てられたのが海老の仕事であったが、これを通して、少しずつ仕事を憶える事が出来た。また、精神的に辛い事があり、苦しい思いをしているときに、親身になって助けてくれたのも水産関係の人達であった。

台湾から福州に異動する際に、ビザの手続を行なう為、1週間ほど日本に滞在したが、その際、福州事務所の指示に基づき、本社の水産部に挨拶に行った。取扱の三分の一を占める水産部には挨拶しておけ、と言われたためである。
一応、20分程度の業務打ち合わせを行なったが、当然の事ながら、相手の説明はさっぱり分からない。海老のサイズ、という基本的な話にしても、「何で海老のサイズが色々あるのだろう」という、極めてプリミティブな疑問が頭をよぎった程度である。
更に、面談は、朝8時の指定であったため、相手も自分もお互いに眠い。一時帰国時は、横浜の実家に宿泊していたが、ここから会社までは2時間程度掛かるので、朝8時に到着する為には、6時前に家を出なくてはならない。電車は混雑の極みの東海道線なので、会社に到着する頃にはくたくたである。おまけに、一年間の台湾語学研修で、スーツを着る習慣もなくなっていたので、スーツにネクタイを着けているだけでも窮屈で苦しい。
そんなこんなで、打ち合わせ時に、朦朧として話を聞いていたら、相手から「あまりやる気がなさそうだ」と判断され、早々に面談を打ち切られてしまった。
この時は、その担当者も自分自身も、僕が海老を担当する事になろうとは、思いもしなかったものである。

福州に到着して暫く経った頃、オフィスに日本語が達者な中国人が現れ、本社から郵送で届いた梱包材のサンプルを受け取っていった。これが、後々友人となる曲氏である。
当時、丸紅の水産部は、福州の大手水産公司に、年間数百万米ドルの大正海老を、加工委託していた。海老の加工、出荷準備が9月頃より始まるため、曲氏は、それに合わせてオフィスを訪れたのである。
この時を境に、海老関係の業務が開始し、僕の仕事も徐々に忙しくなっていった。
9月になると、日本から技術者がやってきた。工場に1ヶ月程こもって、生産管理を行なうためである。工場は、福州から車で2時間弱の場所なので、他の業務がある僕が張り付くわけにはいかない。水産公司の曲氏が工場に付き添い、通訳をやってくれていた。
それからは、技術者が電話でくれる報告を、僕がレポートにまとめて、本社に報告するのが日課になった。但し、日本語の専門用語が分からず、理解不能に陥る事が多かった。例えば、ある日電話で、「あご肉の問題が起きたので、今工場と対立している。すぐに本社に連絡してください」と言われた事がある。「あご肉問題」とは一体何なのかさっぱり分からないが、あまりの剣幕に押されて質問も出来なかった。仕方が無いので曲氏に電話を掛けて聞くと、笑いながら「海老の頭をもぐ際に、頭の肉が胴体に残っている事ですよ」と教えてくれた。
こんな状態の僕が通訳を行なうので、中国語以上に日本語の意味がわからず戸惑うことも少なくなかったが、良い人達に囲まれていたため、海老の仕事は何とも楽しかった。
後日、僕がたまに工場に行くと、技術者自ら、暇を見つけて僕に海老の品質の見分け方を教えてくれた。
あと、印象深いのは海老の検品である。検品の際には、-18℃の冷凍庫に入って箱を取り出さなくてはならないが、技術者は、「マグロの冷凍庫は-40℃ですよ。-18℃程度は、僕はランニングシャツ一枚で大丈夫です」といって、すたすたと中に入っていってしまう。彼は大丈夫でも僕は寒い。通訳をしなくてはならないので、僕も慌てて冷凍庫に入るが、僕が上着を羽織る間もなく彼は中に入ってしまう。寒さに慣れていない僕は、中で寒さに震えながら、「あれを取れ、これを取れ」という指示を通訳するが、こんな事が続くので、検品の度に風邪をひきそうになった。

こんな感じで、丁稚奉公の様に仕事をこなしている内に、10月1日の国慶節になった。国慶節期間中も工場は稼動しているが、水産公司の人間と技術者は、数日間福州に引き上げる事が決まった。
僕も、福州で技術者をアテンドする必要があるものの、既に彼とは気心も知れていたし、何より街はお祭りムード一色である。僕ものんびりした気分でいたが、その夜に掛けた電話で絶望的な気分になってしまう。研修前から付き合っていた彼女に振られたのである。
当時の研修制度では、研修期間中は結婚できないことになっていた(数年後に制度が変更され、現在では問題はない)し、原則として、日本に帰る事もできない。当時は通信事情も悪ければ電話代も高い。こんな環境で、2年間も振られずにいるのは奇跡に近く、他の研修生も、続々と彼女に逃げられていた。
更に、僕の場合は、お互いの性格が合わず、口を利けば喧嘩になる状況が続いていたし、僕の態度にも少なからず問題があった。冷静に考えれば「振られて当然」という状況であるが、ただでさえ、福州で寂しい生活を送っている最中である。更に、説得に帰る事も出来ない状況で、別れ話を切り出されるのは辛かった。その状況下での別れ話は、通常と比べて感情が数倍に増幅されるため、自分自身ではコントロールできなくなってしまう。
それから2日間は固形物がのどを通らず、お湯と酒ばかり飲んでいた。涙はまったく出ないが、寝ることも座る事もできない。ただただ、熊の様に、部屋の中を一人でぐるぐる歩き回っていた。
翌々日の昼になり、少し気持ちが収まってきた時に、水産公司の総経理(社長)、水産庁の人間、技術者が揃って、会食をする事になった。
一時、福州に引き上げていた担当者が工場に戻るので、それを送り出すための昼食会である。
その頃僕は、涙が出ない2日間の反動で、ふとした弾みで涙が溢れ出る状況であった。
通訳をしていても、15分くらいすると涙が出る。トイレと言って、外で暫く涙を流し、涙を拭いては中に戻って通訳。そんな事が何度も続いた。
何度目かに外に出たときに、ふと気付くと水産公司の総経理、曲氏、その他若手社員が回りに居てくれて、何も言わずに肩を抱いてくれた。そんな気遣いが、心に染みた。
昼食が終わると、技術者は「工場においで。元気になるから」という言葉を残して、工場に向かっていった。
オフィスに戻ったのは、午後3時。うつろな目つきで、午後の仕事を済ませ、部屋に戻るとベルの音がする。誰かと思えば男性スタッフであった。
部屋に来てくれたスタッフは、暫く僕の部屋で話をした後に、「お前が元気じゃないと、皆な寂しいんだよ」と言って、簡単な点心を僕に渡してくれた。
その一言を聞いて、すっと涙が流れ、急に心が楽になるのを感じた。数分間、涙を流したままにしておいたら、去っていく彼女の事は、すっきりと忘れられる気がしてきた。
点心はぼそぼそで美味しくなかったが、2日ぶりに食べる食事である。涙を流しながら、すっかり平らげてしまった。食べながら、「今夜はやっと寝られるな」と考えていた。

それから2~3日経って、福州から車で2時間弱の場所にある莆田工場を訪問した。
当時は、福建省内に、幾つかの工場を指定して委託加工を行なっていたが、その中でも一番規模が大きく優秀なのが、この莆田工場であった。この後、何度か同工場を訪問する事になるが、この時は初めての訪問であった。
簡単な住所しかわからないので、運転手の人も、迷いながら運転していたが、暫くすると、「あれだ!」と言って、いきなり笑い出した。
何かと思えば、ある工場の門に「熱烈歓迎!水野真澄先生来我工廠指導」という大きな垂れ幕が掛かっている。工場では、工場長自ら歓迎してくれ、色々と説明をしてくれた。
その横で、技術者と水産公司の人が、楽しそうに見てくれている。
当時の僕は、技術もなければ知識も無い。地位(ポジション)も無ければ経験も無い。
工場を訪問しても、歓迎される筋合いも無い。
僕を元気付けようと、技術者・水産公司の皆なが、工場に頼んで、盛大な歓迎をしてくれたのは明らかである。
まだまだ、辛い気持ちはぬぐえなかったが、それでも知り合って間もない人達が、若造の僕を優しく見守ってくれるのが痛いほど良く分かった。
失恋から一週間、色々な人の情けに触れて、わがままで未熟な僕が、ちょっと成長できるような気がしたものである。

今から思えば、取引関係者の前で感情を抑えきれなかった当時の自分は恥ずかしい限りである。ただ、何が幸いするかわからないもので、その後は、水産庁の貿易関係責任者、水産公司の総経理からも、随分可愛がってもらったし、水産公司の担当者との繋がりも強くなった。
僕が帰国する際には、水産庁の副庁長以下数名が、直々に僕の送別会を開いてくれた。宴会後は不覚にも酔いつぶれて、曲氏とスタッフに助けられて部屋に戻ったのであるが、酔いつぶれながら「福州から離れたくないよ」と言っていたらしい。
実際、僕は5~6月の間に帰任するよう人事部から指示されたので、その範囲内で、可能な限り粘って、6月末に帰国した。

福州を離れる前夜には、曲氏と水産公司の専属運転手の3人で夕食を取った。
レストランには、出張者からお土産でもらった、高いブランデーを持ち込んだが、ちょっとしんみりした宴会になってしまい三分の一しか減らなかった。
「後は飲んでくださいね」と、曲氏にボトルを渡したが、「これは水野の記念。次に会う時まで取っておく」と言ってくれた。
この時点では、お互いもう会う事は無かろうと、半ばあきらめていたのだが。

翌日になると、何の約束もしていないのに水産公司の面々が車で見送りに来てくれた。
水産公司の車で空港に向かい、一年間苦楽を共にした皆に見送られながら、北京行きの飛行機に乗り込んだ。6月早々の事である。帰国前に、一ヶ月の研修出張にでる。
先ずは、北京で中国総代表に会い、経理部配属を取り消して、新しく開設する廈門事務所の初代駐在員に切り替えて欲しいと直談判しようと考えていた。

6.思い出に残る買付出張
僕が福州に赴任した1989年は昭和天皇崩御の年である。
この為、日本では宴会が控えられ、海老の消費も落ち込んでいた。
その年の秋口までは、目立った変化は無かったが、暮れに近づくにつれて変化がおとずれ、年明けには状況が一変した。
それまでは、「長期契約の無いものは買えない」という対応だった日本側が、一転して「福建省内の海老を、片っ端から探してオファーを取り付けてくれ」と言ってきたのである。
こうなってくると、どの会社からも同じ指示がでているので、どこに聞いても在庫が殆ど無い。福建省内の水産公司を電話帳で調べたり、水産庁に聞いたりしているうちに、東山県という場所の水産公司に、1コンテナ分の在庫がある事が分かった。広東省に隣接する県で、当時、福州から車で10時間以上かかった。直ぐに商売は決まったが、それから出荷までが大変であった。当初は、廈門港積みの前提で話していたはずが、途中から、東山港積みという前提にすり変わっている。更に、彼らの輸出許可証の期限が迫っているらしく、期限内にそんな小さな港に配船をするのは不可能と言う事が分かった。
トラック輸送も考えたが、船荷証券が無ければ、決済条件が組みにくい。当時決まった商売の中では、それ程大きな金額ではないが、それでも数千万円の貨物代金である。L/C(信用状:銀行の支払保証)条件から船荷証券を外すのは、リスクが高くて怖い。契約を履行すべきかドロップすべきか、本社の担当者と迷いに迷った末に、本社の担当者が「全て水野に任せる。水野の受領証だけでL/C決済ができるようなアメンド(L/C条件の変更)を開くので、東山に行って決めてきてくれ」と言ってくれた。
この決断が金曜日の午前中、僕が東山県に入るのが翌週の月曜日の朝である。本社には直ぐにアメンド手配をしてもらったが、銀行間で処理されるため、通知銀行(この場合は、中国銀行廈門支店)でアメンド確認ができるまでは、通常数日間かかる。僕は新入社員の頃、輸出為替課に居た事もあり、隣の輸入為替課の同期に電話を掛けて、大至急銀行処理が行なわれるよう頼み込むと共に、アメンドのコピーをファックスしてもらった。但し、東山県水産公司は、アメンドが現地で確認できない限り、貨物のリリースはしないと言っている。その上、彼らの輸出許可証の期限が、水曜日に切れると言う事で、3日以上アメンドの到着が遅れると、話がかなり深刻化する。
状況は厳しいが、ともあれ、本社の営業担当者が僕を信頼してくれた。あとは、外国為替部の同期と、コンテナ手配をしてくれた丸紅香港現法の運輸課を信じて東山に行くだけである。
スタッフに、「東山県ってどういうところ」と聞くと、三人とも「行った事は無いが、ひどい所らしい」という。いきなり、行く気が失せるが、気を取り直して日曜の午後に出発した。
東山までの足はホテルの車である。
僕の受領書で数千万円の決済ができるので、問題が生じたら、本社の担当と僕の責任である。特に、本社の担当者には少なからぬ迷惑を掛ける。彼は、僕が赴任前に打ち合わせを行い、早々に話を打ち切ってしまった人間であるが、その後の業務交信、更には、彼が福州出張した際の付き合いを通して、すっかり気心が知れていて、弟分として可愛がってもらっていた。
金曜日に彼と、「なんか有ったら、どう責任を取ろうか」と話し合ったのも、あながち冗談ではなかった。こんな状況で、行った事も無い場所に行くのはかなり怖い。
悪い想像が膨らむが、ともあれ、行かなくては始まらない。

途中、車中で仮眠を取って、東山県についたのは翌日の朝8時。
着いた早々、運転手が「ひどい所に来ちまったなぁ。早く仕事を終わらせて帰ろうぜ」と言ったが、その言葉に全面賛成である。
東山県水産公司を探し当てた。かなりぼろくて小さい建物だが、その門前にコンテナ輸送車が止まっているのを見た時は嬉しかった。更に、水産公司の人間の手にアメンドが握られていた時には、心の底からほっとした。にわかに信じられなかったが、金曜日に依頼したアメンドが、土曜日に廈門で確認できていたらしい。
その後は、順調に荷積みを行い、受領書にサインをし、昼前には東山県を出発する事が出来た。東山に泊まらずに済んで、僕も運転手も手を叩いて大喜びした。

この商売は、金額的に大きなものではないし、会社の記録に残る商売でもない。更に、失敗すれば、失敗事例集に載ってしまうような内容である。
ただ、本社営業と、海外事務所の信頼関係。取引の裏方となっている、外国為替部担当者の気遣い。更には、顔も知らない、香港現法運輸課の輸送手配。皆が持ち場をしっかり守り、一人一人の力が重なり合って、一つの取引がスムーズに運んだ事が、若い僕にとっては新鮮で嬉しかった。
福州の研修に回された時は、少なからず会社を恨めしく思ったが、この時は素直に、「丸紅というのは良い会社だな」と考えた。

車は走り続け、福州についたのは夜10時過ぎ。途中で、運転手が、食事をおごってくれた。
驚いた事に、化学品担当のスタッフがオフィスで待っていてくれていた。
勝気で、僕とは口喧嘩が絶えない女性だったが、出張に出る日曜日、「本当に一人で大丈夫か?」と心配して、オフィスに来てくれた。よほど、頼りなさげに見えたのだろうか。月曜日に帰れるかどうかも分からないのに、心配して待っていてくれたらしい。
「万事順調だったぞ!」と自慢し、彼女が纏めておいてくれた、その日のテレックスを読み、満足感の中でその日は眠りについた。

その後、東山県に同行した運転手からも、随分気に掛けてもらうようになった。
この時以降、僕が、ホテルの入り口で車を探していると、いち早く見つけて声を掛けてくれる。降りるときに金を払おうとすると、「お前は友達だし、東山に行くとき長距離でたくさんもらったからいいよ」と受け取ってくれない。
常々、「お前が日本に帰るときは、絶対に俺が空港まで送るからな」と言ってくれていたが、最終日に声を掛けられないまま終わってしまった。
この事が、今でもちょっと申し訳なく、心残りになっている。

7.帰国辞令と配属の決定
4月になり、前年の7月から続いた福州での研修も、ゴールが見えてきた。
後は、配属の決定を待ち、配属先と帰任時期を打ち合わせる事になる。
配属先のアイデアはまったく無かった。一応、「電子機械、建設機械、繊維開発等の営業部が僕に興味を示している」という話も伝わってきたし、出身部である「外国為替部」も僕を呼び戻すべく申請を上げてくれた、という連絡はあった。
ただ、結果としてどこに落ち着くかは、一研修生の僕には知る術も無く、あとは運を天に任せるしかない。
4月に配属が決まる、という情報はあったものの、具体的な時期がわからず、気をもんでいるうちに、広州交易会の時期になった。
広州交易会は、今でこそ注目度が若干低くなってきてはいるものの、当時は、単なる輸出商談会というだけでなく、年2回の大セレモニーであった。広州市内はお祭り気分に溢れ、一種異様な雰囲気になる。丸紅からも、中国中の駐在員、本社の中国担当者が、一堂に会して商談に参加するのが恒例であった。
広州事務所が、社内に交易会事務局を作り、ホテルや会議室の手配、その他のアレンジを引き受ける事になるが、広州出張所の人間だけでは手が回らない。そこで、毎回、実務研修生が呼び出され、事務局員として各種の雑用を行なう事になっていたのである。
広州市内が人で溢れ返っているため、宴会場所の確保だけでも大変だし、わがままな出張者が多いので、雑用係はかなり苦労した。
当時憧れの大都会広州とはいえ、はっきり言って、この出張は嬉しくなかった。ただ、前年秋の交易会の事務局を、他の研修生(南京研修生)に代わってもらった経緯があるので、今回行かない訳にはいかない。
夕刻、広州につくと、オフィスに直行し、名簿作成とホテルの部屋割りの仕事を手伝った。
交易期間中は、ホテルが極端にタイトであるため、事前に広州出張所が一括してホテルを予約し、これを出張者に配分する事になっていた。当時のオフィスが東方賓館の中にあり、交易会場もその正面にあるため、年次が上の人間には、東方賓館と、その横にある中国大酒店が割り振られる。
年次が落ちる人間は、少し離れた白雲賓館、若しくはその他のホテルである。僕には白雲賓館が割り振られた。ホテルは、二人一部屋が原則であり、同じ社内ではあるが、見ず知らずの人間と強制的に相部屋になる。僕の場合は、幸運な事に、相部屋の人間が急遽出張を取りやめた様で、一人で部屋を使うことが出来た。

その他の仕事は、宴会場の手配、空港での送迎、電話代の徴収といった感じである。
宴会の手配は、交易会期間中、昼夜問わず、至る所で宴会が開かれている為、会場手配が一苦労である。更に予約だけでなく、参加者の名札の作成、座席の指定等、自分が出るわけでもない宴会のセッティングを、一日何件もこなさなくてはならない。
更に、電話代の徴収は、雑用の極みであった。
交易期間中は、東方賓館内に大きな会議室を3部屋確保し、交易会参加者に提供していた。
この3部屋は、「繊維専用」、「化学品専用」、「その他」、といった感じで割り振られる。
会議室にある電話は、そこに詰めている人間が自由に使って良い事になっていたが、使用する度に、所属・名前・電話の相手先・時間を記入する事になる。翌日、東方賓館から上がってくる電話使用履歴と室内の電話メモを見比べて、全員から電話代を徴収するのが電話代徴収係だ。
携帯電話が無い時代であり、公衆電話もさして普及していなかったため、会議室の電話を使う人間は多い。メモをまじめに書かない人間もいる。中には商売が決まらずいらいらしている人間もいる。そんな中で、人から邪険に扱われながら毎日電話代を徴収するのは、なかなか辛かった。

更には、事務局のある「その他」の会議室の雰囲気が、研修生の僕には、居づらいものであった。専用の部屋が割り振られている繊維・化学品は、例年交易会期間で高額の商談を成立させる。そのため、彼らは交易会に期するものが多く、統率が取れ、部屋も緊張感に満ちていた。
一方、その他部屋は、どうにも退廃した雰囲気に満ちており、昼間から宴会で酔いの回っている人間も少なくない。勿論、宴会自体は、客との商談の延長で行なうものであるし、交易期間中の限られた時間内に、彼らとの宴会をこなすのは、義務に近いものがある。更に、宴会では、昼夜問わず、ほぼ確実に客から酒を勧められる。よって、昼間から飲むのは致し方ないのであるが、部屋の中では、僕が一番若く、立場も弱いため、下手に話し掛けて絡まれてはたまらない。自己防衛という事で、なるべく彼らとは、係わり合いにならないように立ち回っていたし、事務局の駐在員からも、そう指示されていた。
当時の中国は、今と比較すると格段にハードシップが高く、どこの会社も駐在している外国人のストレスは相当なものであった。この様な状態の人間が交易会に参加すると、中には街の雰囲気に呑まれ、宴会で酔わされた結果、気が狂ったように暴れて騒ぎになるケースがまま有った。人騒がせで迷惑千万な話ではあるが、やはり、当時は、今と違った特殊な状況に外国人が置かれていたのは確かであり、皆なストレスを溜めていたのである。

当初の予定では、2週間広州に留まり事務局の仕事をする筈であったが、幸いな事に1週間で、この仕事から抜け出せる事となった。
これは、出張で交易会に参加していた海老の担当者が、広州交易会の後、福州に行く事になったためである。
これは、取引先の水産公司の総経理が交代となったので、新任の総経理・水産庁の人間と面談する必要が生じたためである。それには、是非水野が必要だと、彼が事務局長に掛け合ってくれた。この時の広州滞在は、日本料理も食べられなければ、自由時間も無い。小間使いそのものの窮屈な状況だったので、この申し出は嬉しかった。
早速、飛行機のチケットを手配して、福州に戻る事になった。
ただ、天候が思わしくないので、大事を取り、着陸が難しい福州ではなく、廈門行きの飛行機を手配した。到着後、廈門でタクシーを手配し、車で福州に移動する予定であった。

当日は朝8時に空港に到着したが悪天候で、フライトが遅れている。
僕達の乗る便だけでなく、ほぼすべての飛行機が遅延となっているため、空港は人で溢れ返っていた。
仕方が無いので、床に新聞紙を敷き、売店で冷えていないビールを買って、飲みながら十数時間飛行機の出発を待った。
途中、僕は空港で買った弁当を2個食べたが、出張者は、不味くて食べられず断念。夜9時過ぎまでビールだけで腹をもたせていた。
夜9時半頃のアナウンスで、その日は飛行機が飛ばない事が告げられた。空港に溢れ返っていた人たちが、争うようにタクシー確保に走る。
僕達も、荷物を抱えて走り、当時、開業したてのホリディインホテルに駆け込んだ。
交易期間中で、ホテルの部屋があるかどうか心配であったが、運良くそこに部屋が見つかった。
チェックインした後、ホテルの部屋から、空港のインフォメーションに電話を掛けてみたが、当然の事ながら込み合っており、繋がらない。ホテルの食街(フードストリート)で簡単な食事をとり、ホテルのバーで酒を飲み、明け方2時頃まで時間を潰してから掛けて、やっと繋がった。広州のインフォメーションデスクの担当者は、とても福州と同じ国の人間とは思えないほど、親切で感じが良かった。遅延のお詫びと、新しいフライトスケジュールを穏やかな口調で伝達してくれた。翌朝一番の出発である。
何とも大変な一日であったが、運良くホテルも確保でき、親しい出張者と一緒に食事も済ませ、ほっとした気分で眠りについた。

新しい予定時間は、朝9時。
無事飛ぶよう祈りながら、再度空港に向かった。
但し、この日も延々空港で待ちつづけ、やっと飛んだのは、午後3時頃であった。
途中で、乗る予定の飛行機便がアナウンスされ、人が群がっているので、急いで駆けつけてみたら、昨日食べたのと同じ弁当が配られただけであった。とりあえず、それを食べている僕の隣で、出張者が天を見上げていた。
元々のフライトスケジュールより、30時間の遅れとなった。搭乗がアナウンスされた時の、乗客の喜び様は並大抵ではなかった。飛び上がったり、持っていたコーラの缶を投げあったりで、この光景を見ながら僕は、「これが日本人だったら、万歳三唱でもするのだろうな」と考えていた。

廈門に着いたのは午後4時半。
直ぐに、車を手配して福州に向かった。
福州までは、当時車で5~6時間の道のりであった(現在は、高速の開通により3~4時間)。
夜10時頃、温泉大廈に到着した時は、安堵感で一杯であった。
やはり、不便な場所でも、10ヶ月暮らせば愛着が湧いてくるものである。
出張者のチェックインを済ませ、遅い夕食を取るまでの短い時間、僕はオフィスに寄って、テレックスをチェックする事にした。
オフィスで、机に置かれていた一行のテレックスを見た瞬間、僕は失意にくれた。
テレックスには、水野研修生「経理部」配属と書かれていた。

あれから十数年が経ち、今では会社における経理部の重要性が良く分かる。
会社の状況を把握する事、その状況を踏まえて決算を作っていく事、有効なタックスプランを練っていく事。これらは全て経理部の仕事である。
但し、役員など、会社の経営に直接関与している人間であれば、高いレベルで経理部の業務が理解できるが、それ以外の人間にとっては、これらは無縁である。
その為、仕訳・帳簿の整理・経費管理など、(言い方は悪いが)末端の業務でしか経理部員との接点が無く、結果として、経理部の重要性が理解できない。
当時の僕も同じである。
勿論、経理をやろうとして商社に入る人間は、殆どいないであろうから、新入社員に毛が生えた様な僕が、経理部配属を言い渡されてショックを受けたのも、当たり前と言えば当たり前である。「経理部配属」というテレックスを見た瞬間に思い浮かんだのは、うつむいて帳簿をめくる自分の姿であった。「地味な仕事だし、格好悪いな」と考えた。

思いもよらなかったが、まさに一番帰りたくない部署への配属が決まったのである。
更に、この一年間、自分なりに一生懸命業務に取り組み、その結果、幾つかの部が、僕個人に興味を示してくれたのだが、経理部は事情が違う。僕個人については全く知識が無いが、たまたま中国要員を育てる必要があったので、帰任予定の財経出身研修生を引っ張っただけである。この様な経緯で配属が決まったことも、少し芽生えてきた僕の自信を傷つけた。
呆然とした顔で、出張者と待ち合わせているホテル内のバーに行き、暗い気持のまま酒を飲んだ。

翌日は日曜日であり、日中の業務は無い。
夕方5時に、水産庁・水産公司の人々と待ち合わせて、ホテル内の中華レストランで宴席を持つ事になっていた。
主目的は、出張者と水産養殖公司の新任総経理の引き合わせであるが、僕の福州駐在もあと1ヶ月程度となっていた為、送別会の様な雰囲気にもなった。
最初はビール、次は出張者が持参した日本酒と乾杯は続き、宴席の終わりには、紹興酒に切り替わっていた。
客人(中国側)より、「最後に、全員が水野と乾杯したい。但し、水野が使うのは日本酒の枡。自分達は普通のお猪口」という、無謀な意見が出された。まだ若かった頃で、酒量に自信があったし、昨日の辞令で自棄になっていた僕はこれを受け、全員と枡で乾杯をした。一人2回乾杯を希望する人間もおり、結局、その時だけで枡13杯の紹興酒を飲む事になった。宴席の間、結局どれだけの酒を呑んだか、見当がつかない。恐ろしい量を飲んだ事は確かであろう。
ホテルのロビーで、頭を下げて、客人を見送った所までは憶えているが、それ以降は記憶が無い。
気が付いたときには、ホテルのカラオケで、涙を流しながら、テレサ・テンの「別れの予感」を歌っていた。「泣き出してしまいそう。痛いほど、好きだから」という歌いだしの歌である。
何故、別れの予感かは定かでないが、取りあえず、泣きたい気分だったのであろう。

8.福州に別れを告げて(研修の終わり)
5月末になり、福州を離れる時がきた。
帰国は6月末だが、その前に1ヶ月の研修出張に出かけるため、福州離任は5月末という事になる。
研修出張という制度は、研修期間中に1ヶ月、研修生が自分で計画をたて、研修地(中国本土+香港)を自由に旅行できる制度である。
1年弱の実務研修期間中、研修地を離れる事は許されなかったが、こんな感じで、まるまる1ヶ月、会社の金で旅行ができるのは、今から思えば、非常に寛容な制度であった。
研修出張で、シルクロードの都市を幾つか訪問する人間、史跡を見て歩く人間、色々なタイプに分かれるが、僕は迷わず、北京・上海・広州・大連・深圳・香港といった、他の事務所、現地法人がある場所を訪問する事にした。目的は、自分の配属がどうにかならないか、今後、引き抜いてくれる様なところが無いか、各地の主管者に直談判する為である。

最初に訪問したのは北京である。
北京には、本社の取締役でもある中国総代表が居る。
総代表に掛け合えば、何とか辞令が変わるのではないかと考えていた。
北京に到着し、大きな荷物を抱えたまま北京支店(社内呼称は支店だが、実態は駐在員事務所)に向かった。
数日前に福州の客からもらった茅台酒が、当時の僕の嫌いな酒だったので、これを手土産に使う事にした。北京支店のオフィスに入ると、茅台酒を片手に面識の無い総代表の席に向かい、挨拶もそこそこに、「経理部に配属になったが、自分は中国に残りたい。近々、開設予定の廈門事務所の初代駐在員に、配属を変えて欲しい」と頼み込んだのである。
後日、人づてに聞いたところ、ぼろぼろの服装で、大きな荷物を抱えた国籍不明の人間が、総代表の席につかつかと歩み寄って行くため、全員が何事かと、驚いて見ていたらしい。
当時の総代表は、強面で有名であったが、「中国に残りたいという研修生は珍しい」と、嬉しそうな顔をした。「なかなか面白い奴だ。ちょっと考えてやろう」と言ってくれ、北京支店の経理担当駐在員に指示して、ポケットマネーで、僕に酒を飲ませてくれた。その翌日、お礼に行くと「経理も大事な仕事。暫く頑張ってみろ」と言われたのである。
後で聞けば、まさにこの中国総代表が、「中国要員を早急に育てろ」と経理部に指示を出し、僕の辞令が決まったらしい。これでは、総代表に掛け合っても、辞令の変更はあり得ない。
とはいえ、いきなりダメ出しはせず、ガス抜きをさせた上で、諭された訳で、後から思えば、お釈迦様の手の上であくせくする孫悟空の様な状態であった。
その後、他店も回って主管者に掛け合ってみたが、当然の様に何の成果もあげられなかった。今にして思えば、入社4年目で、中国語がちょっと出来る以外は、何の特技も無い僕が、いくらわがままを言っても辞令がひっくり返る訳がない。
北京、大連、上海などの各都市で、成果も無く滞在が終わる度に、肩を落とし、「結局、経理か」とため息をついた事を思い出す。
とはいえ、自由に各都市を回り、色々な人と話をし、毎日の様にご馳走になるのは楽しかった。
特に、印象に残っているのは、北京と深圳でのやり取りである。

北京では、同じ外国為替部の先輩が、僕が研修生に出るのと同時に営業に異動し、その後北京に駐在していた。
その先輩に、食事をご馳走になりながら、「3年間経理から出られなかったら会社を辞めたい」と言った時に、「それは重要な話だね。でも、真剣な話をすると、相手も真剣に聞かざるを得なくなるよ。自分の決意は胸に黙って秘めておく事も大切」と言われた。
この時は、穏やかな口調で、大事な指導を受けた気がした。
子供の頃から、ついつい人の善意に甘え、良い人たちに助けてもらいながら、困難を乗り越えてきた。ただ、もう少し自分に厳しくならなくてはいけない。簡単に愚痴を言わず、決意は自分の胸に秘めておく。特に、酒を飲む場で、軽軽しく口に出したりはしない。
難しい事ではあるが、そんな事が出来たら格好いいな、という事は良く分かった。

次は、深圳での出来事。
深圳事務所は、香港現法傘下の駐在員事務所であった。
その後、華南地域(広東省・福建省等)の現地法人、駐在員事務所は、香港現法の傘下となったが、当時は、香港現法の出張所は深圳だけで、他の組織は全て本社直轄であった。
それも有り、深圳事務所だけは、他の事務所とは位置付けも違えば、雰囲気も違っていた。
当時の深圳事務所は、所長は香港現法の業務部長が兼務。スタッフは4名のみという小規模な組織だったが、スタッフは全員、口をそろえて、「会社に勤めている様ではだめ。独立してこそ成功。俺も独立したい」と真剣な目をして語っていた。実際に、数名は、その後独立して会社を興しているし、駐在員であった所長も、後に退職して香港で開業した。
独立志向が正しいかどうかはさておいて、香港に近い経済特区である深圳の活気と貪欲さを体感した気がした。

研修出張の訪問予定地を回り終えると、最後に福州に戻り、数日間滞在してから帰国する事にした。特に目的も無く、誰にも会わないつもりだった。
もう一度福州の街を目に焼き付けてから帰りたい、とだけ思っていた。
福州に戻り、宿泊した事の無いホテルに2泊して、最後に孤独な気分を味わった。
研修の2年間は、いつも孤独を感じていた様な気がする。帰国したら、こんな気分とは無縁になるのであろうか。そんな事を考え、一人で2年の時間を振り返った。
出発の日になり、僕はホテルのタクシーで空港に向かった。
まだ朝早い。タクシーは、見慣れた風景の中を走っていく。
車、自転車、輪タク、牛、そして人の群れ。
見慣れた景色である。でも日本に戻ったら、もうこの景色を見る事も無いだろう。
空港に着き、手持ちの兌換券(当時の外国人専用通貨。1994年1月に廃止)を香港ドルに換金した。

最後の日は、さわやかな夏晴れであった。
僕を乗せた飛行機は、1時間半で香港・カイタック空港に到着した。
飛行機が着陸態勢に入ると、僕は窓の外に広がる香港の街を見つめていた。
入道雲を避けるように、飛行機は大きく旋回し、窓側の僕は、香港の街並みを一望する事が出来た。窓から見える香港の景色が、いつもとは違って見える。
昔、写真で見た夏のヨーロッパの様な、のどかで爽やかな光景に映った。

飛行機がカイタック空港に到着し、タラップに降り立った僕に、さっと海風が吹き付けた。
福州にはない、なんとも爽やかな海風である。
その時、僕は軽い眩暈を覚えた。足から力が抜けていくのを感じながら、「2年間の研修が、いま終わった」と考えていた。
これからまた、日本での生活が始まる。
2年間で僕はどれだけ成長できたのだろうか。

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