<マクロ経済>
SARSの中国経済への影響について
馬 成三
新型肺炎、重症急性呼吸器症候群(SARS=サーズ)が猛威を振るっている。世界保健機関(WHO)によると、5月23日夜(日本時間24日未明)で中国での感染者数は5,285人、死者数は303人、それぞれ世界全体の66%と44%を占めている。
中国全土計31地域(22省、4直轄市、5自治区)のうち、25の地域から感染者の報告があり、中でも首都北京と、対外開放の最前線にある広東省の感染者数と死者数は最も多く、全国に占める両者のシェアは合計でそれぞれ75%と72%(5月23日現在)に達している。幸い、中国の最大工業都市である上海の感染者数は5月23日現在計8人とまだ少ないが、計2人の死者が出たなど、悪化する恐れもある。
広東省は4月後半より、新規感染者数の増加スピードが鈍化し、沈静化の傾向を見せ、5月23日にWHOより「渡航延期勧告」が解除された。北京市の新規感染者数も5月後半より一桁またはそれに近い水準に減少したものの、北京周辺地域での感染は広がっている。うち、山西省、内モンゴル自治区、天津市と河北省は相次いでWHOにより「渡航延期勧告」適用地域に指定された。
SARSの発生・蔓延は中国指導部にとって、1989年「天安門事件」以来の最大の危機となり、中国の経済・社会に多くの挑戦をもたらしている。中でも中国経済への影響が注目される。
●現時点で中国経済への影響は限定的
近年IT不況などの影響で、世界経済が大きく落ち込む中、中国経済は「独り勝ち」の様相を呈し続けてきた。昨年の実質GDP(国内総生産)の成長率は前年より0.7ポイントも高い8%に達し、今年第1四半期にはさらに前年同期比9.9%と、1997年以来最も高い伸び率を示した。
SARSの発生・拡大は中国経済にマイナスの影響をもたらすものと予想されるが、現時点ではその影響は限定的なものにとどまっているようである。中国国家統計局によると、SARSが北京なで広がった4月の中国の成長率は8.9%に達し、第四半期の9.9%より鈍化したものの、昨年通年のそれ(8%)を上回っている。
中国の最大商業都市である上海市の4月の実質GDPは前年比成長率12%増と、むしろ昨年の10.9%と今年第1四半期の11.8%よりも高い伸び率を示している。
SARSの被害が最初に出た広東省も高成長を維持しており、今年の1―4月の実質GDPが前年同期比12.8%伸びた。この数字は同1―3月期のそれ(13%)よりやや低いが、前年同期のそれ(10.7%)より2.1ポイント高かった。
現在最も多くの感染者と死者を出している北京の1-4月の実質GDP前年同期比成長率は、上海と同じく12%となっている。この数字は1-3月のそれ(12.7%)より0.7ポイント低下したが、前年同期のそれ(8.4%)より3.6ポイント高い。
産業別にみると、観光、交通輸送、国内商業、外食、ホテルなど第三次産業への影響が大きい一方、第一次産業と第二次産業への影響はまだ少ない。4月の工業生産額(付加価値ベース、全国有企業と売上高500万元以上の他の企業)は前年同期比14.9%増となっている。この数字は第1四半期の17.2%を下回ったものの、前年通年のそれ(12.6%増)を上回っている。
税関統計によると、1-4月の輸出額と輸入額は前年同期比それぞれ33.5%増と46.8%増であった。うち4月の輸出と輸入額の前年同期比はそれぞれ33.3%と34.4%に達し、輸出の増加鈍化がほとんどみられず、月間の輸出入額としては過去最高を記録した。
1-4月の外国直接投資受入れは前年同期比件数で34.2%増、契約金額で同50.1%増、実行金額で51.0%増であった。うち4月の伸び率はやや低下したが、依然としてそれぞれ28.7%、27.2%と37.2%に達している。
●長引けば影響が拡大
4月末時点までの数字からみれば、SARSの影響はまだ限定的なものにとどまっているが、もし長引けば影響も拡大していくと予想される。アジア開発銀行の試算(5月9日発表)によると、SARSが今年第3四半期まで長引けば、中国の今年の実質GDP成長率は7.3%(今年4月の予測)から7.0%へと0.3ポイント鈍化し、被害額は58億ドル(約6960億円)に達する。
一方、北京大学中国経済研究センターの経済学者らは、SARSの影響で今年の中国の経済成長率は6〜7%へと、昨年の8%から1〜2ポイントも減速し、通年の被害額は間接的なものも含め計2,100億元(約3兆1500億円)になるとの予測を出している。
業種別でみれば、最も大きな打撃を受けるのは観光関連産業と一般消費関連産業とされている。UFJ総合研究所の試算では、海外からの観光収入を含む観光収入全体は890億元減収、小売や外食など一般消費関連産業は660億元減収する見込みである。
さらに、SARSの影響が観光関連産業や一般消費関連産業から輸出や外国企業の対中投資に波及するならば、中国経済は大幅な減速に陥る可能性もあるとみられる。UFJ総合研究所は安全宣言が6月末まで延び、不安が完全に消え去るのには年内いっぱいかかることを想定し、最悪の場合、中国のGDPの実質成長率を最大で2.8ポイント押し下げる恐れがあるとしている。
広東省統計局は「今後も輸出など経済への影響は避けられない」として今年の実質経済成長率見通しを従来の13%から11%に下方修正した。北京市の成長率については前年のそれより2〜3ポイント減速するだろうとの見方が多い。
北京市統計局の発表によると、今年1〜4月の経済成長に対するSARSの影響は約4億5000万元で、GDP成長率を0.5ポイント押し下げた程度にとどまったが、4月だけをとってみると、GDP成長率を1.7ポイント押し下げている。「黄金週大連休」(ゴールデン・ウィーク)を含む5月に入って、SARSの影響が強まったとみられ、GDP成長率への影響の増大も避けられないであろう。
中国の高成長を支えてきた輸出と直接投資受け入れもSARSの影響を受け始めている。今年4月に開催された広州交易会では、来場者数は前年86%減、成約高は同74%減となっている。5月以降諸外国が中国商品輸出への制限措置を導入したり、商品及び包装材料に関する特別の証明書類の提出を求めたりする動きが増えていることなどを考えて、5月以降の輸出は相当な影響を受けるものと予想される。
諸外国企業の対中投資も契約または実行の延期などで影響が拡大している。中国全国の直接投資受け入れの約4割を占める広東省では、1〜4月の受け入れ額は契約ベースで前年同期比36%も増加したが、4月単月では減少したと伝えられている。
中国商務省の研究者はSARSが6〜7月に収束することを前提に、通年の貿易額は約100億ドル減、直接投資受け入れは約10億ドル減、前年の実績(貿易額6,200億ドル、直接投資受け入れ527億ドル)と比べて小幅減にとどまるだろうとの予測を出しているが、これより大きな被害を受ける可能性が高いとみられる。
上記の情勢を前にして、中国政府は5月初めに緊急対策を打ち出し、「経済の安定成長の維持に努め、被害を最小限度にする」ことを目標に、自動車や住宅市場の育成、健康産業の振興、輸出の拡大を図ると同時に、航空、観光、外食、商業、タクシーなど被害の大きい業種に対して減税など支援策を取ることなどを決定した。
●注目される日中経済関係への影響
日本にとって、中国が最大の輸入相手国、米国に次ぐ2番目の輸出市場と重要な投資先となっているだけに、中国でのSARSの発生・拡大は日中経済交流及び日本経済にも無視できない影響を及ぼしている。
日本政府はSARSの日本経済への影響について「これまでのところ限定的」との見方(5月8日、竹中平蔵経済財政・金融担当相が日本経済戦略会議に提出した資料)を示しながら、事態が長期化・深刻化した場合、輸出を通じて影響を及ぼす可能性も指摘している。
近年日本の対中輸入の拡大はよく取り上げられているが、日本の対中輸出の急増ぶりはより目覚しいものがある。財務省の統計によると、昨年日本の輸出全体が円ベースで前年比6.4%しか増加しなかったが、対中輸出は5倍にあたる32.3%の伸びを達成した。ジェトロの試算によると、2002年日本の輸出増加分の85%は実は対中輸出増による。
今年に入ってから、日本の対中輸出はさらに増勢を強めている。1〜3月のそれは円ベースで前年同期比42.9%増、日本の輸出全体の伸び率(同5.0%増)を大きく上回っており、日本の輸出に占める対中輸出のシェアも11.2%と、はじめて1割台に乗った。
北京での感染者が急増を見せた4月には日本の対中輸出は前年同期比39.5%増と、依然として高い伸び率を維持し、日本の輸出全体に占める対中輸出のシェアはさらに12%と、日本の対米輸出の約半分に迫っている。
日本の対中輸出は一部の投資財や中間財に集中するという特徴を持っているため、SARS被害拡大に伴う中国経済の減速が深刻化したら、日本の対中輸出、特に中国市場に大きく依存する上記の業種・企業は大きな打撃を受けかねない。
第一生命経済研究所の試算(5月9日発表)によると、SARSの中国での拡大が年末まで続く場合、対中輸出の減少で日本の実質GDP成長率は0.12ポイント程度低下する見込みである。日本政府の2003年度の成長率見通しが0.6%程度となっているから、単純計算で押し下げ幅は20%に及ぶのである。
SARSの感染拡大の商品市況への影響も懸念される。実際、中国などの経済活動が停滞するとの観測から天然ゴムや非鉄など産業素材の買い控えが相次ぎ、日本国内卸売物価にも影響し始めた。これは日本のデフレ圧力を高め、景気の回復を遅らせかねない。
今ひとつの懸念は中国進出日系企業の生産・業績への影響である。近年、中国の安い労働力と巨大市場に惹かれて、大手企業を先頭に日本企業の対中投資は新たな高まりを見せている。中国政府の統計によると、2003年3月末現在、日本企業の対中直接投資は認可件数で約2万6000件、実行額で377億ドルに達している。
SARS感染の拡大で中国進出企業の生産ラインの一時停止といった事態に陥った企業も出ているが、これは進出企業の業績に悪い影響を与えるばかりでなく、中国からの部品供給に依存する日本の国内生産や一部の商品供給にも支障をもたらしかねない(昨年中国は米国を抜き日本の最大輸入相手国と浮上したが、中国からの輸入のうち6割以上が中国進出日系企業による「逆輸入」に占められている)。
近年、日本国内の景気低迷を背景に、中国事業を業績改善の牽引力とする日本企業が増えているなか、中国での生産・販売の縮小によるダメージも大きいであろう。実際、日本経済新聞社の緊急調査(4月25日実施)によると、SARSの感染が長期化すれば主要企業の7割が今期業績へのマイナスの影響を予想している。
日本貿易振興会の緊急調査(5月8〜14日実施)によると、対中進出企業の86%はSARSの拡大で「商談の滞り」や「技術者の移動制限による生産停滞」、「新規事業の遅れ」、「契約・予約キャンセル」など事業への影響が「ある」と答え、現時点で生産・販売が減少した企業も4分の1以上にのぼっている。
長期景気低迷に苦しんでいる日本にとって、SARSの消費者心理への影響も深刻な問題である。内閣府が行なった4月の景気ウオッチャー調査によると、SARSの影響もあって、街角の景況感を示す現状の判断指数は前月に比べて2.6ポイント低下し、3カ月ぶりの悪化を示した。
●日本の対中投資増加の基調は変わらないか
SARS問題で日本経済がダメージを受ける背景として、グローバル化の進展のほか、内需不足とそれによる輸出への過度依存も挙げられる。内閣府によると、昨年(暦年)日本の実質GDPは前年比0.3%増、うち内需は0.4%減、輸出は8.3%増、純輸出のGDP成長に対する寄与度は0.7%に達している。
日本の輸出増への寄与度を、国・地域別にみると、最も高い数字を示したのはSARSの主要感染地でもある東アジア地域にほかならなかった。ジェトロの試算によると、東アジア地域への輸出拡大がなければ、昨年日本の輸出及び経済はいずれ「マイナス成長」に陥った。この意味では、日本にとって経済面での最大のSARS対策は、内需を拡大し、輸出への依存を減らすことといえよう。
豊富で且つ安価な労働力、巨大市場、高い成長性といった中国の魅力からみれば、日本企業の対中進出は今後にも高い水準を維持していくものと見られる。実際、北京でのSARS騒ぎが広がった4月16日、東芝は中国関連の事業規模を2005年度に2002年度の2倍にする計画を発表した。
他方、SARS被害の発生を教訓に生産拠点や部品調達の過度集中のリスクを避けるべく、適切な対策を取ることも求められている。その選択肢として、中国・ASEAN間のバランスの維持や中国国内での分散投資が挙げられる。
SARS発生後、日本企業は中国出張の取り止めや中国駐在員の一時帰国などの対策を取っているが、日系企業の管理者の現地化が欧米企業に遅れを取っているだけに、進出企業の生産・営業への影響も大きいとみられる。今後、進出企業の「危機管理」を強化する意味においても、現地管理職の育成など現地化のさらなる推進を迫られよう。
SARSの発生・拡大は、「高水準の衛生条件」という投資及び生活環境に関する日本の「強さ」を再認識させる契機になることも期待される。小泉首相は5年以内に日本の対内直接投資を倍増するとの構想を打ち出しているが、今後日本のこの「強さ」をどう対内直接投資の増大に結び付けるかが課題となろう。
他方、SARSの発生は日本企業に新しいビジネスチャンスをもたらすことも考えられる。短期的には体温計やマスクなど衛生関連用品の対中輸出増は別にして、中長期的には中国が公衆衛生・防疫に関するインフラの整備を迫られる中、日本の技術・設備への需要は増大していくものと予想される。
SARSの発生を契機に、中国政府部内でGDP優先の姿勢を改め、公衆衛生・防疫体制づくりなどに投資を増やすべきだとの意見が強まっている。実際、中国政府は4月から5月にかけて、SARS感染の防止と医療施設の充実を図るため、2回にわたって計23億元(約345億円)に上る公共資金を投入することを決定した。
中国市場で日本のライバルとなっている欧米に目を向けると、SARSの逆風下で対中ビジネスの拡大を図ろうとする例もみられる。今年の主要国首脳会議(サミット)の主催国・フランスである。さる4月25日、ラファラン首相は中国の国有航空会社によるエアバス旅客機の発注契約式に出席するため、約20人の財界人を率いて北京を訪問した。
フランスの狙いは北京−上海間の高速鉄道での仏新幹線の売り込みにあるとの見方が多い。競争相手としての日本もこれを静観せず、トップセールスを含む官民協力の強化など適当な対応策を取るべきであろう。
(03年5月24日記・6,257字)
静岡文化芸術大学
文化政策学部教授
馬成三