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ログイン2008年3月10日
中国を理解するための三つのキーワードの三点目は「歴史悠久」、つまり「悠久の歴史」を抱える大国ということである。中国は有名な世界四大文明のひとつ、黄河文明発祥の地であるが、その最古の人類遺跡は中国大陸の中央にある湖南省城頭山廟遺跡といわれている。その年代は紀元前6,400年ということで、紀元前3,000年頃と言われる四大文明をはるかにさかのぼる以前から中国大陸には人類の祖先が暮らしていたことになる。
中国を理解するための三つのキーワードの三点目は「歴史悠久」、つまり「悠久の歴史」を抱える大国ということである。中国は有名な世界四大文明のひとつ、黄河文明発祥の地であるが、その最古の人類遺跡は中国大陸の中央にある湖南省城頭山廟遺跡といわれている。その年代は紀元前6,400年ということで、紀元前3,000年頃と言われる四大文明をはるかにさかのぼる以前から中国大陸には人類の祖先が暮らしていたことになる。
現在確認されている中国最古の王朝は「殷鑑遠からず」という諺でも有名な「殷王朝(紀元前1,700年頃)であり、その首都は「商」という地名だった。すなわち、「商人」という言葉の語源はもともと「商の都に住む人」という意味で、いかにも「中国商人」のルーツとしてふさわしいネーミングである。ちなみに中国のことを英語でChina(チャイナ)と呼ぶ語源は「秦(チン)王朝」から来たという説と、陶器(チャイナ)で有名な景徳鎮が「江南(チャンナン)」の地にあったから、という説がある。また中国語のことを「マンダリン」と呼ぶ語源は清王朝時代の中国人を指した「満大人(マンターレン)」から来ているといわれる。
日中関係の歴史を語るうえで、「徐福伝説」という逸話も有名である。
秦王朝が中国大陸を統一した紀元前22年、日本はまだ弥生時代だった。その頃、秦の始皇帝が家臣の徐福に命じて、東海の果てにあると言われる「蓬莱島」に3干人の男女を派遣し、不老長寿の薬を探しに行かせたという伝説である。一回目、二回目は失敗して戻ってきたが、三回目の船旅はとうとう戻って来なかったという。果たして、徐福船団がたどりついた先はどこの地だったのか?…遼東半島沖の蓬莱島、朝鮮半島、そして日本、と諸説紛々がある。しかし、当時の日本は弥生時代でまだ文字が存在しなかったため、中国のように文書記録は残存していないが、現実には、日本全国各地に徐福を祀った「徐福神社」が多数存在しているのも事実である。この徐福伝説は長い日中友好の歴史における初のエピソードとして語られることが多いが、この伝説のままに、「日本人は大昔、もともと皆中国人だった」と信じて疑わない中国人も少なくない。また、日本はもともと古代秦王朝の「移民政策」により生まれた国だという人もいる。
このように「中国が世界の中心である」と考える中華思想は決して中国大陸だけのものではなく、古くから世界中の漢民族、中国人に共通する伝統的な思想である。だから、個々人の優劣、特質はいろいろあっても、不用意に「中国は…、中国人は…」という言い方をしてしまうと、この中華思想に触れてしまうことになり、世界最多の中華民族全員を一度に敵に回してしまうことになりかねない。この点はよく肝に銘じておきたい。
中華思想とともに、中国には古くから儒教や陰陽五行思想にもとづく「王朝交代の論理」が存在する。これは日本の「盛者必衰の理(ことわり)」にも似ている。現代風に言えば、皇帝とは「万能の神」ではなく、天帝が派遣した「執行役員」、エグゼクティブ・オフィサーにしかすぎないという考え方であり、皇帝が堕落し、王朝が腐敗して徳治が執行できなくなった場合は、天帝が別の新しい皇帝に命じて現王朝を滅ぼし、新王朝を打ち建てさせるという考え方である。この王朝交代の論理を「天命を章(あらた)める」すなわち「革命」思想と呼ぶ。このように天命による必然的な王朝交代の思想は「易姓草命」理論と呼ばれる。
事実、中国を統一した晴王朝はたった38年間の短命に終わった。世界史上でも最大・最強とも言われる元王朝は蒙古民族が打ち建てた王朝で、漢民族を完全に支配しヨーロッパまで侵略したが、100年程度で事実上滅亡している。簡単に言えば、「永続する王朝はなく、必ず滅びる」、そして「新王朝により旧王朝は裁かれる」という伝統思想である。人々は皇帝に絶対服従しながら、王朝が滅んだ後々は、歴史的事例などを材料に持ち出しながら、前王朝皇帝を批判し、死後にその罪悪を暴くのである。
しかし、その一方で、中国には隋王朝から清王朝まで1,500年の長期にわたって「科挙制度」が存続した。家督や血族とは関係なく、また何回にもわたる王朝の交替、分裂を超越して、能カ、実カと徳のある人物が試験により選抜されて官僚に昇進していくという官僚統治システムが中国社会には定着していたのである。その試験科目は、祖先崇拝、父母敬愛、子々孫々までの繁栄をコアとする君子の思想「四書五経」つまり儒教聖典であった。中国社会は、日本の士農工商やインドのカースト制度のように血のつながりで固定された世襲の身分制ではなかったのである。この特徴は注目に値するだろう。一人の皇帝と、その一族が王朝として大陸を絶対的に支配しても(「一君万民」思想)、いつかは必ず天命により王朝は交代する、そして現実には実カと能カのあるエリートが天命を受けて熾烈な競争に勝ち残り、衆愚社会を統治する、という伝統的な社会的価値観が中国には存在する。儒教思想は現世における個人の宇宙、人格の完成を目標とする「小乗哲学」であり、徳のある天子が衆愚を正しく統治し、子々孫々までの繁栄のために自分が祖先を敬い蓄財することは善徳である、という考え方は中国近代史の政治腐敗にもつながるように思われる。
このような中国の悠久の歴史と文化、哲学、価値硯は今でも時代を超えて社会の根底に息づいているのではないだろうか。少なくとも、二千年程度の歴史しかない日本が軽く扱うことのできる相手ではない。(2008年3月記・2,300字)
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