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【連載】日中比較文化論 中国の思想から影響を受けた日本文化

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2008年8月22日

記事概要

以前、「対照(シンメトリー)を好む中国人」というテーマの時に、「陰陽説」のお話をしました。今日はその中国から伝わった「陰陽説」が日本文化にどのような影響を与えたかと言うことについてお話したいと思います。

以前、「対照(シンメトリー)を好む中国人」というテーマの時に、「陰陽説」のお話をしました。今日はその中国から伝わった「陰陽説」が日本文化にどのような影響を与えたかと言うことについてお話したいと思います。

 

平安京と陰陽五行説

 まず身近な例として京都の都市造りのことを取り上げてみましょう。京の都・平安京を造る時、中国の西安、当時の唐の都「長安」をまねて造られたと言うことは良くご存知ですね。しかし何故、平安京を造営する場所としてこの土地を選んだのでしょうか?それは中国から日本に伝わってきた「陰陽説」や「五行説」(通常はこの二つを合わせて「陰陽五行説」と呼んでいます)及び「風水」の思想に基づいてこの土地が選ばれ、都市建設がなされたからです。

 この前は「陰陽説」だけを取り上げてお話しましたが、本来は「五行説」や「風水説」と合わせて説明しないとよく理解できないのですが、聞いているうちに眠くなってしまいますので、寝ないで聞いてもらえる程度のお話にしておきます。

 陰陽説の考え方では、山の南は陽:山の北は陰、川の北は陽:川の南は陰、とされており、「風水」では「風:天の気」は山(高いところ)から発し、「水:地の気」は川(低いところ)にてとどまる、と考えられています。都を築く上で、「北に山があり、南に川があるところ」が陽が重なる理想的な場所なのです。また東西に山があれば悪の気を防ぐことができると考えられています。したがって最もよい地形は「北と東西の三方を山で囲まれ、南だけが開かれた地形で、南に川が流れているところ」になります。この考えに当てはまるのが京都の地形であったわけです。

 京都は三方を山で囲まれた盆地であり、南方向が唯一開けていて東から流れる加茂川と、西からの桂川がここで合流して下流に流れています。ちょうど英語の「Y」の字の形をしていますが、このような地形は平城京が造られた奈良盆地にもあてはまります。京都や奈良の都は、このように中国から伝わった思想によって築かれたのです。

 

山陽と山陰

前回、宿題となっていた中国地方における「山陽地方」とか「山陰地方」という名前についても、今の話で大体分かってきましたね。陰陽説で「山の南は陽:山の北は陰」ですので、中国山地の北側にある鳥取県や島根県は「陰」であり、南側にある岡山県や広島県は「陽」になります。また「川の北は陽:川の南は陰」にあたりますので、川の北側(川は水を意味し、この場合は瀬戸内海の北側)にある岡山県や広島県は「陽」で、川の南側(日本海の南側)にある鳥取県や島根県は「陰」になることから、中国山地の陽と陰で、それぞれ山陽地方、山陰地方と呼ばれるようになったのです。日本で何の不思議もなく使われていた山陽地方、山陰地方といった名前が、陰陽説と関係があるとは思わなかったでしょう。

 日本には陽とか陰の字がつく地名はあまりありませんが、中国にはたくさん名付けられています。特に良いとされている「陽」は、ざっとあげても瀋陽、洛陽、咸陽、貴陽、衡陽、岳陽、襄陽、など数え切れないほどありますが、これらの土地はすべて川の北、もしくは山の南、つまり陽の位置にあります。秦の始皇帝の都であった「咸陽」は久峻山の南、渭水の北に位置し、「咸(みな)陽である」というところから名づけられたと言います。

 一方、負のイメージのある「陰」はさすがに少なく、私の知っている限りでは長江の南岸にある「江陰」と「華陰」くらいです。調べればもう少しあるのかも知れませんが、地図を見ていても見つけられるのはほとんど「陽」の付いた地名ばかりです。 

 

お寺を見れば方位がわかる

 皆さんは知らない土地に行った時、地図を見て自分のいる位置だとか、目的地の方向を調べますよね。ところがどちらが北なのかわからなければ困ってしまいます。どちらを向いているかわからなくても、北がどちらかすぐわかる方法が中国にはあるのです。     

中国の皇帝はその家臣と謁見する時、必ず北を背にして南向きに座ります。反対に

家臣は北向きに座って皇帝に拝謁します。これは「天子は南面す」と言われ、日本にも伝わって天皇や将軍が臣下と対面する時には同じ方法で行われました。

これを行うには宮殿の建築上、北側を壁にし、南側を開ける造りにしなければなりません。つまり宮殿は必ず南向きに建てられているのです。

 中国四千年の歴史をもってしても、皇帝が住む宮殿と言うのはそんなにどこにでもあると言うわけではありません。しかしお寺ならどんな田舎に行っても大抵あるものです。お寺の本堂はその御本尊をお祭りしてあり、ご本尊は南面し、信者は北面して拝むようになっています。昔のお寺は古代の王や皇帝と同じように敬われる対象であったことから、このような建て方がされたのだと思われます。

 一般的にお寺は陰陽説の考えから山中や山裾に南向きに建てられるため、山門から本堂までは登って行く格好になりますが、雲南省昆明にある「円通寺」はすり鉢状のくぼ地に建てられたため、山門から北へ向かってくぼ地の中心に向かって降りて行く形になり、一番低い所に本堂があるといった珍しい造りになっています。

 文化大革命の10年間は仏教とかキリスト教などの精神文化が否定され、寺院や古い仏像などが破壊されてしまいましたが、近年においては少しずつ廃寺になったお寺にも信者が帰ってきて、復興されているところが増えてきました。

 方位がわからなくても大丈夫な機会が増えてきたと言うことになりますね。

 

 

着物と旗袍(チーパオ)

 日本の伝統的な服装といえば着物・和服ですね。中国の代表的な服装と言えばチャイナドレスでしょう。日本と中国の民族衣装は全く違ったもののようになっていますが、昔は中国も日本も同じような服装だったのです。

 古代においては中国の人々の服装は着物と同じように前で合わせて帯で結ぶもので、袖も広く、全体にゆったりとしたものでした。多少の変化はあるものの、このような服装が17世紀中頃の明代末まで続きました。ところが明に代わって中国を統一した清は満州族であったため、彼らの民族衣装であった「旗袍」を着ることが次第に広まって行きました。

「旗袍」の「旗」とは「満州八旗」と言われたように八つの部族を表す印として旗が用いられたことによるものであり、満州人を指す言葉です。皇帝の服を「龍袍」、道士の服を「道袍」というように、「袍」は首から足先まである丈の長いワンピースのことです。「旗袍」はもともと満州旗人の皇族の女性達の服装で、今のように体にぴったりとしたものではなく、ゆったりとしたものでしたが、広く一般庶民にいたるまでこの服装が広まり、「旗袍」が中国を代表する服装となったのです。女性の体のラインを強調するようなスリットの入った細身のチャイナドレスになったのは1930年代頃からだと言われています。

 中国とルーツを同じくする日本の着物ですが、日本でも着物を着る人が少なくなってしまいました。普段は洋服を着ていて冠婚葬祭の時にしか着物を着なくなりました。

そのおかげで京都の伝統産業である織物業が不況に陥っていることをみても、いかに着物を着る人が少なくなったかがわかります。

今、「中国とルーツを同じくする」と言いましたが、着物のことを今でも「呉服」と言いますね。呉服とは「呉の国」の服装、つまり中国古代の「呉の服」が日本に伝わり、今もなお「呉服」の名前が残っているのです。

 

正座と腰掛 

 中国人のスタイルが良いのは座る習慣がないからで、日本人女性が大根足なのは正座をする習慣に原因がある、とよく言われます。また中国人のスタイルの良さを強調するために「チャイナドレス」があり、日本人のスタイルの悪さを隠すために「着物」を着る文化が続いたのだ、とも言われますが、最近では日本も中国もお互いに日常生活では伝統的民族衣装を着ることが少なくなり、両国とも生活様式があまり変わらなくなりました。        

座る、腰掛ける、と言った生活様式ですが、昔は中国も日本も同じように座ることが一般的であったのですが、いつの間にか中国は腰掛ける習慣に変わり、日本は相変わらず中国から伝わった生活様式を守り続けました。

なぜ日本は座る生活を続けられたのでしょうか?それは日本が畳という便利なものを考案したからに他なりません。畳は今までのような板張りの上に座ることに比べれば長時間座っても足が痛くならないし、その上に布団を敷いて寝ることもできます。

 一方中国では、地面に「席」と呼ばれる薄い座布団のようなものを敷いて、その上に正座していました。ひざまずくと言うのは、後世では非常に丁寧な礼儀作法となりましたが、古代では正座する前に両足をついいたまま行う、略式の軽い会釈程度の挨拶にすぎませんでした。その軽い挨拶が終わってからお尻を足の上に落とすと、正座の姿勢になります。正座をする習慣が行われていたからこそのお話です。

 司馬遷の書いた「史記」の中にも、漢の劉邦と楚の項羽が和解の宴をした「鴻門の会」では、宴に参加した者はすべて「座」したと書かれていますので、地面の上に薄い「席」を敷いて正座したことがわかります。

 このような座る習慣から椅子に腰をかけるように変って行ったのは、宋代の半ばころからだと言われています。11世紀から12世紀にかけてのことです。

日本でも近代になって、ようやくいすに腰掛ける生活スタイルになりましたが、私たちの世代ではまだ座る生活から完全に脱し切れずにいる、洋式生活への移行時期にあたります。私の妻などは子供の頃からの習慣で、正座をして平気で1時間でも座っていられるくらいですので、スタイルにおいてはまだ変化がそれほど見みられない世代のようです。

私達の子供の世代になって、やっと皆さんのようなスラッとしたきれいな足の人が現われるようになったのです。皆さん、遅く生まれてよかったですね。(2008年8月記・4,038字)

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