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華人企業家にとってのもう1つの政治―北京と香港の経政家たち(下)

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2005年2月16日

<各業界事情>

華人企業家にとってのもう1つの政治
―北京と香港の経政家たち(下)

アジア・マーケット・レビュー 2005年1月1・15日合併号掲載記事)

 「昔から中国では、押さえつけられてきた者が、正義を手にしたと思い込むと、もう頭には報復しかなかった。」                          (陳凱歌『私の紅衛兵時代』講談社現代新書)
という。かつて中国では《悪》だった金儲けが、いまや完全に《正義》へと大変身した。金儲けという「正義を手にしたと思い込」んでいるはずの企業家たちは、あるいは、長い間、金儲けを《悪》と蔑んできた政治への「報復」を考えはじめているのだろうか。返還前後から現在までの香港で経政家がみせてくれた政治的立ち回り術は、近い将来の中国で企業家が演じるかもしれない政治的パフォーマンスを暗示しているようだ。

港事顧問に馳せ参じた経政家たち

 92年3月になると、中国政府(国務院)港澳事務弁公室と国営通信社である新華社香港支社は「香港の平穏な返還を実現し、繁栄と安定を維持するための意見と要求を各界各層から求める」という名目で、「港事顧問」(正式には「香港事務顧問」)のポストを新設し、有力者を任命した。任命するのが港澳事務弁公室と新華社香港支社とはいうものの、前者は中国政府部内で香港・マカオ政策を策定・実施する実務機関であり、後者は当時の香港における北京政府の最高出先機関、いいかえるなら”在香港中華人民共和国大使館”。つまり北京政府そのもの。であればこそ、彼ら港事顧問には「一国両制」「港人治港(香港人が香港を統治)」という大原則から逸脱することは許されなかった。つまり北京による統一戦線工作ということになる。
 92年3月の第1期(43人)を皮切りに、93年に第2期(48人)、94年に第3期(50人)、95年に第4期(45人)と、港事顧問は総勢で186人にのぼるが、有力不動産デベロッパーの華懋(Chinachem)集団を率いる[龍の下に共]如心(ニナ・クン/1937年生)女史を除き、有力企業家のほぼ全員が任命されている。“有資格者”である彼女が任命されなかったことに対し、当時、様々な憶測が飛んだが、96年11月に特別行政府の最初の行政長官を選ぶ第1期政府推薦委員に任命されているところをみると、90年代前半に北京政府と彼女との間でなんらかの“齟齬”があったのかもしれない。90年代後半になると地下鉄関連施設、錦江飯店、和平飯店など華愁集団の上海での不動産投資が動きだしたことなどが、傍証として挙げられるだろう。
 ここで注目すべきは、香港が事実上の拠点とはいうものの、マレーシアの郭鶴年(ロバート・コック)、タイの謝国民(タニン・チヨウラワノン)、その実兄の謝中民(スメット・チヨウラワノン/正大集団主席)、インドネシアの力宝(Liipo)集団を率いる李文正(モフタル・リアディー)三男の李宗(力宝集団・地産・副主席)などASEAN出身の有力華人企業家が港事顧問に任命されていたことだろう。彼らの関連する企業の中国投資が、他のASEAN華人企業家に較べて突出していたことは、想像するまでもないはず。

特別行政区政府設立に向けて

 93年7月、中国の国会に当たる全国人民代表大会は、円滑な返還事務を進めるための実務機関として特別行政区[竹冠に壽]備委員会予備工作委員会の設立を決定しているが、当時の外相である銭基[王ヘンに探のつくり]主任とし「内地(中国側)と香港の各界人士と専門家」の総勢57人で構成された予備工作会議こそが、香港返還を実質的に取り仕切ったのであった。この工作会議には、雷英東、束亜銀行董事で高等法院上訴庭副庭長を務めた李銭基環福善(サイモン・リー/1922年生)の2人が副主任として、李国宝(東亜銀行総裁)、李嘉誠、査済民(査氏企業集団主席/1916年生)、徐展堂(新港集団・城巴有限公司・北海集団主席/1941年生)、曽憲梓(金利来集団主席、北京大学工商管理学部教授/1934年生)、劉皇発、羅康瑞、黄宜弘などの常連が委員として参加していた。
 95年12月、90年の全国人民代表大会の決議にしたがい、「国家主権にもとづき、返還への過渡期の平穏を原則にして、特別行政区の第1期政府と立法会を設立させることを保障す」べく特別行政区篶備委員会が成立した。総勢で105人の委員を率いる主任委員は副首相兼外相の銭基探。彼の下に置かれた9人の副主任のうち香港出身者は、雷英東、李福善、董建華、董建華長官の香港側生みの親ともいわれた故・安子介、それに初代長官の有力候補として董のライバルと目され、その後、董長官の下で一貫して住宅・土地行政を担当している梁振英(梁振英測量師行総経理/1954年生)の4人。香港側一般委員のうちの企業家をみると、李嘉誠、李兆基(恒基兆業董事長/1928年生)、郭炳湘(新鴻基地産董事長/ウォルター・クオック/1950年生)、鄭裕(新世界発展董事長)、郭鶴年、唐翔千、李国宝、査済民、徐展堂、曽憲梓、呉光正、謝中民、鄭維健、黄宜弘、羅康瑞、陳有慶など総勢34人の常連組。おそらく彼らの傘下企業の株式時価を総計したなら、当時の返還バブルに沸いた香港株式市場の7.8割を占めていたのではなかったか。彼らこそ、返還バブルの「勝ち組」。ならば、彼らは返還バブルと北京への“忠誠ポーズ”を交換したのではなかろうか。ちなみに全105人の委員のうち内地委員(中国側委員)は56人。残りの香港側委員の4割は企業家であり、反北京色を鮮明にしていた民主派は排除されている。
 96年11月、特別行政区[竹冠に壽]備委員会は初代行政長官と第1期立法会議員を選定するための第1期政府推選委員会を成立させているが、総勢400人の委員のなかには、これまでに挙げた様々な委員会に名を列ねた企業家はもちろんのこと、当時の香港でマスコミや社交界を賑わすような企業家のほとんどが網羅されていた。そのなかには、先に挙げた[龍の下に共]如心・さらにマカオの何鴻「火三つのの下に木」(スタンレー・ホー)もいた。
 おそらく、返還を前にして彼らの半数であっても香港脱出のポーズをみせたなら、香港経済は大混乱、社会はパニックに陥っていただろう。さほどまでに、彼ら企業家の香港における存在は北京にとっても重要なものだった。もちろん、企業家の側も北京の“常套手段”を熟知していればこそ、リスク管理を忘れてはいなかったはずだ。

“民間”からの返還祝賀行事

 前評判に違わず第1期政府推選委員会は董建華を初代行政長官に選び、第1期立法会議員も親北京派で固めた。そして肝心の返還当日がやってくる。
 返還式典会場前方にしつらえられた壇上の一方に江沢民以下の北京最高首脳陣が控え、一方にチャールズ皇太子、メジャー首相以下の英国側が並ぶ。1842年以来、英国植民地・香港の地に翻っていたユニオンジャックが降ろされ、人民解放軍軍楽隊の演奏のなか五星紅旗が特別行政区として中華人民共和国に「回帰」した香港の夜空に翻った。
 アヘン戦争以来の1世紀半、極東進出の橋頭堡であり拠点であった香港を失った英国側は、帆船のビクトリア号に乗り込み、雨に煙る香港を後にする。代わって、人民解放軍駐留部隊が、篠つく雨の中を香港に入ってきた。歓迎の小旗をうち振る市民たち。あの時、香港の友人の家でテレビに映される人民解放軍香港入城のシーンを見ていたが、隣にいた友人の父親が、「こういった情景は、どこかで見たことがある」と。それからおもむろに、「ああ思いだした、日本軍の香港占領だ。まあ、あの時も、この時も同じようなものだ」――政治に対する庶民の素朴でつ勁い対応ぶりをみせつけられたようだったことを、いまでも鮮やかに思いだす。
 そして、その夜、香港では「香港明天更好基金会(「香港の将来はもっとよくなる基金会」とでも訳しておこう)が主催する民間団体による壮大な返還歓迎式典が行なわれた。この団体は、「香港人と国際社会が持つ返還後の香港に対する信頼感を強め、香港の各方面における最新の発展への理解を促進す」べく95年9月に設立されている。非営利・非政治的活動を掲げてはいるが、李嘉誠、李兆基、郭炳湘、銭果豊、呉光正、曽憲梓、鄭裕彫、何鴻[火三つに木]、李国宝、謝中民ら“常連メンバー”に加え、香港在住インド人の代表ともいえるハリ・ハリリラ、郭鶴年長男の郭孔丞、シンガポールの不動産王で知られる黄廷芳の長男で香港有数の不動産デベロッパーの信和(Sino)集団を率いる黄志瑞(ロバート・ウン/1952年生)。さらに、この基金会の顧問委員会主席は鄭裕長男の鄭家純(ヘンリー・チェン)――この顔触れをみれば、彼らの掲げる非営利はともかくも、非政治的活動に疑問を持たない者はいないはずだ。
 というのも、返還を前にして欧米のメディアは盛んに「返還後の香港の繁栄」に疑問符をつけ、はなはだしい場合は「香港の死」まで予想していた。このような一連の動きに北京は不快感を顕にし、返還バブルの恩恵に与っていた不動産デベロッパーたちをはじめとする企業家は困惑していたはず。であればこそ、北京と企業家の利害が一致し、「民間の返還歓迎ぶり」を内外に強く印象づける必要があったということだろう。

経政家たちの香港返還とは?

 1997年6月30日から7月1日にかけ、世界の耳目を集中させた香港返還とは、いったいなんだったのか。いま、改めて振り返ってみると、確かに1840年のアヘン戦争をキッカケとする「屈辱の近代史」の象徴である植民地・香港を取り返したという意味からするなら、中華民族主義を満足させると同時に、中華民族の政府としての共産党政権の正統性を内外に闡明にするという大事業であったと。だが、一歩を進めて考えるなら、香港という「金の卵を生む鶏」を北京と香港の経政家との間で分け合ったということではなかったか。
 中国人の行動原理を「上に政策あれば、下に対策あり」と表現するが、これは、おそらく大多数の華人企業家にも通じるはずだ。その意味からいうなら、香港返還にみられた企業家たちの立ち回り術にこそ、香港返還という北京の「政策」に対する彼らなりの「対策」の姿が浮かびあがろうというものだ。
 いまや“下野”も視野に入れはじめたとの観測もある共産党政権に対し、勃興著しい中国の企業家がどのような折り合いと立ち回りをみせるのか。香港の企業家たちの演じた「対策」のなかに、あるヒントが隠れているような気がする。

(樋泉克夫)

本記事は、アジア・マーケット・レヴュー掲載記事です。

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