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着実に深まっている中国人と日本人の個人的関係

中国ビジネスレポート 労務・人材
田中 則明

田中 則明

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2007年2月5日

記事概要

 日中関係と言うと、どちらかと言えば、「上手く行っていない」「負の面」「ディメリット」といった言葉を連想しがちですが、日中間の経済交流は日に日に高まりを見せており、それにつれて日本人と中国人の個人間でもいろいろな関係が生まれ育っていることを忘れてはなりません。

経済トピックス 日中関係と言うと、どちらかと言えば、「上手く行っていない」「負の面」「ディメリット」といった言葉を連想しがちですが、日中間の経済交流は日に日に高まりを見せており、それにつれて日本人と中国人の個人間でもいろいろな関係が生まれ育っていることを忘れてはなりません。

 

 以下、ご参考に供すべく、台湾成功大学75周年記念同窓会誌に寄稿した拙文をご紹介させていただきます。

 

 なお、中国語原文をご所望の方は、下記までメールをいただければ、メールに添付して簡体字バージョンを送付申し上げます。(勿論、無料です)    apoyando@nifty.com


 

「我らの友情に乾杯!」       田中則明

(台湾成功大学75周年記念同窓会誌への寄稿文、原文:中国語)

                         日本語訳:大浦尚子

 

  1974年夏、私は一つ年上の同僚と共に国交断絶直後の台湾へと飛び立ちました。私は、いくばくかの興奮を覚えつつタラップを降り、全く未知の世界、悠久の歴史を持つ奥深い国へと降り立ちました。

 

  私は外国に行くのは生まれて初めてでした。数ヶ月前、会社から台北での二年間の中国語学習を命ぜられた時、果たしてこれが自分にとって幸運なことなのかどうか判断がつきませんでした。なぜなら私は中国、そして中国人に対する知識がほとんど無く、かろうじて大学受験の際に学んだ東アジアの歴史についての断片的な知識があるだけだったからです。それは私の上司、同僚、友人らも同様で、このニュースに接して、彼らは私を祝福すべきか、慰めるべきか、はたまた励ますべきかわからず、ただただ驚くばかりでした。当時、中国人と交流がある日本人は極めて少なく、中国語を学ぶ人もほとんどおらず、中国語研修生も極稀で、私に何かアドバイスできる人間はほとんどいなかったのです。唯一の例外は、この賢明な決断を下した会社トップでしょう。あるいは、何か特別な信念があったのかも知れませんが・・・。今思えば、当時の会社トップの国際的視野にはただただ敬服するばかりです。

 

私たちが五条通のホテルに滞在して間もなく、中国語の授業が始まりました。私たちの学校は台湾師範大学の付属校の「国語中心」で、そこは当時、世界の中国語教育の“メッカ”でした。アメリカ人、日本人、韓国人、イギリス人、ドイツ人・・・・どこの国の学生もいました。日本人にも多種多様な人がいて、私たちのように企業から派遣された中国語研修生の外、私費留学生、台湾で商売を営んでいる人もいました。また、後から分かったのですが、中国語を学ぶ目的も人によって実に様々でした。この学校はまさしくその名に恥じず、世界における「国語」学習ブームの「中心」でした。

 

しかし、もともと日本文化本位主義の私は、見知らぬ中国人社会に投げ込まれ、すぐさま周りの全てに対して不満を感じ始めました。「なぜ彼らは努力しないのだろう??」「初めて会ったのに、すぐに『親友』だなんて、一体どういうことなんだ??」などなど、なんとも言えない違和感を覚えました。そんな折、私は生まれて初めての「生命の大洗礼」に見舞われました。それは海鮮料理を食べたのが原因で、嘔吐と下痢を繰り返し、ベッド上でのた打ち回るという、丸三日、悪夢のような洗礼でした。けれども、最終的に、日本人がロシア征伐用に開発した「正露丸」が効いたようで、突然パッと健康体に戻りました。不思議なことに、この大洗礼以降、私は何千回と中華料理を食べていますが、全くお腹を壊すことはありませんでした。しかし、もっと不思議なことに、この一件後、私のあの嫌悪感も一切消えてなくなってしまったのです。これが異国文化に適応するということなのでしょうか。

 

日本のサラリーマン生活から離れ、専ら外国語を学ぶ生活を、私は非常に楽しむことが出来ました。毎日学ぶことがあり、得るものがありました。特に個性ある先生方、孔先生、白先生、李先生、高先生・・・の授業中のお話や、授業後の雑談などは、私の心に染み込むもので、大変為になりました。いまなお日本にいる日本人が聞いたこともないこと、学んだこともないこと、体験したこともないことを、私は聞き、学び、体験することができました。ある時、先生に対して私が言った言葉が、意外にも反論されたのを覚えています。私が「日本人と中国人は同文同種ですね。」と言ったところ、先生は「それは違いますね。日本人は『同』の字を動詞の『同化する』の意味として曲解していますからね。」とおっしゃったのです。私はこの言葉を聞いた時、先生が一体何をおっしゃりたかったのかすぐには分かりませんでした。しばらくして、中国人と日本人間のわだかまりに思い当たり、やっとその意味を悟ったのでした。この時から、この『同文同種』という言葉は、私にとって非常に味わい深い言葉となったのでした。

 

1976年夏、私は東京の本社へ戻りました。そしてその後1978年に香港へ赴き、1983年に東京へ戻り、更にまた1987年に上海へ赴き、1992年に東京へ戻り、1994年に再度上海へ赴きました。そして、1998年に東京へ戻った後、会社の「去ることが可能な者は皆去れ!」のスローガンに応じ、思い切って25年間勤めた会社を退職することにしました。バブル経済後の日本社会はまさに一つの曲がり角に差し掛かっており、サラリーマン達の生活方式にもその影響が及んでいました。

 

現在、私は日本で中国語を教えています。正確に言うと、現在私は全力で「田中式ピンイン表記法」の普及を図っています。これは私が仕事の合間に開発した中国語学習法で、「中国語難民(中国語ができなくて悩んでいる日本人)」を救うべく開発したものです。私の目標は、中国語を学んだことのない100万人の日本人を入門レベルにまで導くことです。現在、顧客はほとんどが日本各界の企業で、生徒のほとんどは日本企業の企業戦士達です。今になって、日本企業はやっと中国語教育を重視し出したのです。日本人が一生懸命中国語を学んでいる姿を、もし中国語教育界の中国人教師達が目にしたならば、きっと心から感嘆の声を上げるに違いありません。恥ずかしがりやで、感情を表に出すのが苦手なことで世界的に有名な日本人達が、日本人講師の指導の下、四声の抑揚に合わせて、身振り手振りを交え、大声で中国語の発音を練習しているのですから。今年の春、ある大企業で「スパルタ方式」の中国語研修を行いました。どれ位「スパルタ」かというと、月曜から金曜まで、毎日朝9時から夕方5時までぶっ通しで授業をするという、それはそれは「スパルタ」な授業でした。こう申し上げると、「講師陣はたまらないだろうなぁ」と思われると思いますが、全くもってその通り!日本では、それこそ阿里山のように強靭な身体を持っていないと、中国語講師は到底務まらないのです。

 

香港にいた頃、仕事の関係で、台湾成功大学出身の秀才、李○○という中国人と知り合いました。私達は知り合ってもう28年になります。その間、両民族間には新しいわだかまりがいくつも生まれました。けれども、私たちの友情はまったく変わることはありませんでした。李さんと知り合って間もない頃、私の会社が李さんの会社に対し、商売上で人情に悖ることをしたのですが、李さんは私を一切責めず、また、その後もこの件を持ち出すこともありませんでした。私は彼の心の広さに敬服の念を覚えずにはいられません。また、私達の付き合い方は一風変わっていて、私達は普通数年に一回しか顔を会わせないし、一年に何回かしか電話しません。それも毎回ほんの少しの会話を交わすだけなのです。例えば、「今どこに?」「香港ですよ。明日東京に行きます。」「じゃあどこで会いましょうか?」、「孫は面白いよー。」「うちの次男にももうすぐ生まれますよ。我々ももう年ですね。」といった感じです。実はこの文章も、電話で雑談した折決まったのです。李さんが、突然「何か文章を書いてくれません?」と頼んで来て、私が「お安い御用さ。」とあまり深く考えずに即答して決まったものなのです。ですが、二人が顔を会わせるとなると、様相は一変します。家庭の事、ビジネスの事、政治、外交、オリンピック、金庸、老子・・・・何でも話します。お互い、社交辞令、お世辞は全く不要、いかなる形式にとらわれる必要もありません。こういう間柄のことを中国語で「心心相印」と言うべきでしょうか、或いは「心有霊犀一点通」と言うべきでしょうか、どちらにせよ、私達の間には、わだかまりがないのです。

 

私が日本人に中国語学習を勧める一番の理由は、他でもなく、多くの日本人と中国人に李さんと私のような個人的な関係を築いてもらいたいからです。私は両民族間においては、それは絶対可能だと固く信じています。私は、いつも教室で、学生達に、中国語の勉強をしっかりやるよう励ます一方で、出来るだけ多くの中国人に近づき、大いに交流し、たくさんおしゃべりをし、大いにビジネスをやり、たくさん恋をするよう勧めています。もし、面倒くさがって相手の言葉を学ばなければ、日本人と中国人の心からの交流を実感することは不可能です。が、言語の壁、コミュニケーション上の壁を乗り越えてさえしまえば、日本人と中国人の交流の場は実に無限に広がっているのです。

 

 さあ、今年、私は李さんとどこで会うことになるのだろう?香港か、東京か、台北か、はたまた上海か・・・・。まぁ、どこであっても、まずは・・・・「我らの友情に乾杯!」

(2007年2月記 3,939字)

 

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