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【中国深読みコラム】第2回~日中貿易の過去と未来~

中国ビジネスレポート コラム
松本 健三

松本 健三

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2013年5月24日

記事概要

前回は中国から見た最近の日中貿易についてお話した。今回は現代中国とは何か?という原点について解説する。【1,620字】

前回は中国から見た最近の日中貿易をご紹介しましたが、日中貿易が現在の形に至るまで紆余曲折がありました。当面の懸案である尖閣問題を持ち出すまでもなく、戦後の日中貿易は、双方の国内政治に翻弄され、途中何度も中断や危機的な状況になった経緯があります。大手商社やトヨタ・日産といった歴史のある企業は戦前より現在以上の規模で日中貿易や投資(現地生産)を行っており、最近になって始まった訳ではありません。未来を予測するには、まず過去をきちんと整理しておく必要がありますので、今回は現代中国とは何か?という原点をお話したいと思います。

最近安倍内閣が歴史認識の問題で中国・韓国だけでなく、アメリカよりも懸念を表明されておりますが、現在の世界の枠組みはアメリカ、イギリス、ロシア、(ソ連)、そして中国(中華民国)が1945年に戦後の青写真を定めたポツダム宣言にあります。日本はこれを受諾し終戦となり、戦後がスタートします。中国は1949年に中華民国より中華人民共和国となり、1991年にはソ連からロシア連邦がこの枠組みを引き継ぎました。歴史認識の食い違いは、この戦後レジームをどう認識するかです。安倍首相の祖父である岸信介元首相は、満州国商工大臣でA級戦犯、叔父である佐藤栄作元首相は在任中も、中国(=中華人民共和国)が1971年に国連加盟後も中国を承認せず、田中角栄首相の北京訪中まで国交回復は遅れました(欧米諸国は1960年代に承認)。これには野党だけでなく、自民党内の親中派からも反発を招き首相退陣の一因となりました。

さて、一方の中国は1949年に内戦が終了し、現在の中華人民共和国が成立します。中国の方も新国家の経済発展方法を巡り、革命継続派と経済発展による国家運営を主張する実務派の対立が長く続き、1950年代は反右派闘争で50万人を失脚・投獄、大躍進政策の失敗で3,000万人の餓死者を出し、これを調整しようとした劉少奇国家主席や鄧小平総書記は、1966年勃発した文化大革命で失脚(鄧小平は1973年復活)、結局今に至る中国の経済政策の基本である改革開放が党として採択されるのは、鄧小平が3度目の復活を果たし主導権を握る1978年の第11期3中全会でした。

この長い苦難の期間中も、日中貿易は細々ではありますが連綿と継続されております。石橋湛山首相、第一物産(三井物産)新関社長等の支援により1952年第一次日中民間貿易協定(1年1回延長)、1955年戦後初の訪中実業団派遣で貿易が再開されたものの、1958年岸信介内閣の反中政策と長崎国旗事件により日中貿易中断。1960年池田内閣発足に伴い”友好貿易”の開始(春、秋の広州商談会)。
1962年に中国側寥承志(中日友好協会会長)と日本側高崎達之助(元通産大臣)によるLT貿易(日中長期総合貿易に関する覚書)を交わし双方の首都での事務所設置。1964年佐藤内閣誕生後、反中台湾擁護政策によりLT貿易低迷。1966年中国で文化大革命開始。1967年毎日、産経など記者追放と第一通商(=三井物産)スパイ容疑で軟禁(日経鮫島記者も)事件などがあり日中貿易は再度中断となりました。
転機となったのはまたもアメリカで、1971年ニクソン大統領の特使であるキッシンジャー補佐官が北京入りし米中関係改善に合意、更に同年国連にて中国招請台湾追放が可決。この間、日本政府(佐藤内閣)は蚊帳の外でした。アメリカも中国も、日本を外して重大な決定を行った、また今後もあり得るという歴史の教訓であります。
翌1972年2月ニクソン米大統領北京訪問に続き、同年9月田中角栄新首相が北京にて日中国交回復文書に調印。1976年毛沢東、周恩来死去、四人組逮捕で文化大革命が終焉し、鄧小平の再復活により現在に至るわけでありますが、今後の日中貿易もけっして楽観できる情勢でないこと肝に銘じておきたいと思います。

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