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ログイン2014年2月20日
1997年2月19日、鄧小平が92歳で死去してから早17年が経とうとしています。80後と呼ばれる三十代を含む3億人近くの中国人が、革命と貧困を知らず、日本での戦後生まれの戦争を知らない世代と同様、高度経済成長を謳歌している現在の中国。鄧小平が中国の最高指導者の座に就いた1978年12月当時、中国人も、世界の誰もが想像すらしていなかった世界が、今我々の眼前に広がっています。
主な数字で1978年と2013年を比較してみましょう。
1978年 | 2013年 | |
GDP | 3,645億元 | 56兆8,845億元(156倍) |
貿易額 | 206億ドル | 4兆1,600億ドル(202倍) |
粗鋼生産 | 3,178トン | 7億5,200トン(24倍) |
車生産台数 | 18万台 | 2,211万台(123倍) |
外貨準備高 | 40億ドル | 3兆8,200億ドル(955倍) |
農民現金収入 | 40ドル | 1,483ドル(370倍) |
米国留学生数 | 50名 | 20万人 (4,000倍) |
これらはごく一部の経済指標で、多くの統計項目で既に世界一かアメリカに次ぐ世界二位となっています。わずか30年余りの間に100倍を越す経済成長をしたのは人類史上初めての快挙であり、それも10億という世界最大の人口を抱える国で達成したことは奇跡と呼んでいいでしょう。ではなぜこんなことができたのでしょうか?そのヒントが鄧小平の遺した言葉の中にあります。
1992年1月23日、南巡講和の途上、深圳から珠海に向かう河口で船が清朝の税関跡(アヘン戦争跡)を通り過ぎた時、中国は外国の帝国主義者たちによって屈辱を受けたが、その時代は去ったとのメッセージとして、「発展が遅れればいじめられる。我々は何千年もの間、ずっと貧しかったが、二度と貧乏になってはならない。社会主義の下にも市場がある。貧乏なのが社会主義ではない。皆が豊かになれる社会主義への道を歩むのだ。」と同伴した地元幹部と報道陣に述べています。
この当時、中国の改革開放政策は危機的な状況でした。1978年の三中全会で鄧小平の復権と対外開放政策が決まり、その後の10年間、胡耀邦と趙紫陽の奮闘により経済規模は4倍になりました。しかし過熱する経済とインフレ、胡耀邦の失脚と突然の病死、東欧社会主義圏の崩壊、ソ連のペレストロイカ民主化政策の影響などが重なり、1989年5月のゴルバチョフ訪中前後には天安門広場に100万人の学生が自由と民主を求めて全国から押しかけ、収拾がつかない状態で戒厳令→6月4日早朝の悲劇につながります。学生に理解を示した趙紫陽は解任され失脚、その後を託された江沢民が保守的な経済政策を採って3年目でした。天安門事件後の諸外国の経済制裁の中で、改革開放が規律の低下と学生デモを助長したとして、財政統制を中央集権化、投資抑制策と同時に、愛国主義教育を進め、中国は再び排外的鎖国傾向に戻りつつありました。鄧小平はこれに不満と危機感を抱いていました。
アンドリュー・ネイサン教授の「天安門文書(2001年)」によると、6月3日人民解放軍を天安門広場に向かわせる訓示で、「弾圧をするのは改革開放を継続して、中国を現代化するために、平和で安定した環境が必要だからだ。」と述べています。事件前の6月3日です。
事件後、国内外で鄧小平と中国共産党の支持は急落し、「国内と支持と安定を取り戻すには、急速な経済発展を維持することが絶対の条件だ。」と鄧小平は固く信じていましたが、後事を託した江沢民は動かず、やむを得ず最後の切札として南巡講和という旅に出ます。
1992年1月17日、鄧小平を乗せた特別列車が北京駅を出発した時、中国共産党の指導部は江沢民を含め誰一人知らされていなかったといいます。1月18日武漢駅で、「改革に反対する者は皆辞めてもらう。」と述べ、1月23日には広東省の何百万人の住民が、香港のテレビを通じて、高層ビルを背景にした鄧小平の深圳訪問の報道を見ましたが、中国共産党宣伝部は、香港のテレビ電波が周辺の大陸部に届くのを妨害できませんでした。
香港の新聞雑誌が大々的に書きたてた記事が、中国各地の新聞に転載され、江沢民は自分が改革開放を大胆に進めなければ、鄧小平は自分を更迭するつもりだと悟ります。鄧小平が北京に戻った2月21日、人民日報は「より大胆に改革を進めよ」という社説を掲げ、3月10日の中央政治局会議では満場一致で「改革開放のペースを速めよ。」という二号文件が採択されました。そして、10月の第14回党大会で中国の改革開放の継続と「社会主義市場経済」が世界に発表されることになります。もし江沢民が改革の継続を支持しなければ、鄧小平は喬石(1998年全人代常務委員長退任)を江沢民の後釜に据える可能性があったと伝えられています。翌年の1993年3月の全国人民代表大会で、鄧小平により北京に抜擢された朱鎔基が第一副首相になり、経済運営で目覚しい成功を収め、1997年の第15回党大会で総理に就任しました。もう一人、この1992年の党大会で鄧小平に抜擢された政治局常務委員が当時50歳の胡錦濤です。そしてこの党大会を最後に鄧小平は政界から引退します、多くの長老と共に社会主義国で初めての強制定年制の確立を置き土産として。その後の中国の経済発展と現在の繁栄を見る時、1992年のこの南巡講和の意義が改めて思い起こされます。
以上
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