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ログイン2005年12月27日
(1)ああ、ここにも、異文化理解の長い長い道のりの第一歩を踏み出した人間がいる。
(2)この4方は、最も理想的な形で日本という異文化に触れることができたんだな。良かったな。
(3)異文化理解の道のりは、果てしなく続く険しい山道のようなものだが、日本と中国に限って見ると、両国民の間に立ちはだかる障壁は、それ程高いものではないゆえ、必ず乗り越えられるんだ、という確信。
で、現在、(1)、(2)が終わり、(3)を論じようとしているのです。
仏教の「四苦八苦」の一つに、『恨憎会苦』(恨みや憎しみを持つ人間に会わなければならないという苦しみ)があります。仏教の解説書で始めてこの苦しみの項に出会った際、私には、この苦しみは、他の苦しみとはちょっと異色な、いや、他の苦しみに比べて苦しみの度合いが小さいものと感じられ、違和感を覚えました。「愛する人と別れなければならない」「欲しいものが手に入らない」という苦しみに比べれば、どうってことはない、と感じたのです。
しかし、その後、自分自身の様々な人間との係り、世の中の多くの人の他人との係り方を見るにつけ、この苦しみが、決して侮れないものであることが痛感され、仏教のものの見方、人間の深層心理に対する迫り方に改めて感銘を受けるようになりました。
卑近な例で言えば、最近行われた東アジア+アセアンの会議における東アジアのトップ同士のぎこちない所作から感じ取られる「恨憎会苦」です。たった15分間でも、席を並べることが、「息苦しい」という感じが満ち満ちています。いや、この会議に比べれば、6カ国協議の「息苦しさ」は、数倍勝っているに違いありません。お互いの「また、あいつと顔を合わさなければならないのか?どういう風に、挨拶しようかな?どういう言葉を交わそうかな?できれば、一つ隣に席を置いてくれないかな?」などという気持ちが、こういった雰囲気を醸し出しているようです。更に、国家の代表として会議に臨んでいる訳ですから、その一挙手一頭足にメディアや国民の関心がそそがれている訳ですから、不用意な言動は政治家としての命取りになりかねません。いきおい、慎重にならざるを得ないでしょう。これは、まさに「苦しみ」であるに違いありません。
今、東アジアの国と国の関係には、こういった「苦しみ」が色濃く影を落しています。
一方、こういった“大気候”に覆われた東アジアにおいても、個人と個人間では、「あの人がいなければ、生きていても仕方ないわ」「彼女を幸福にするためなら、何でもやるぞ」・・・・という熱い、熱い関係も少なからず生まれています。男女間だけではなく、「この人と一緒に仕事をできるとは、私はラッキーだ」「この人からは、学ぶものが多い。どこまでも着いて行こう」「力を合わせて、目標を達成しよう」・・・等等、熱い関係があちこちで生まれています。
しかしながら、前に述べたように、“小気候”は“大気候”の波にかかれば一溜りもないのが常です。営々と築き上げられた堤防が一遍に鉄砲水に押し流されてしまうように、脆いものです。
そのような可能性が否定できない状況下にあって、「異文化は必ず乗り越えられるという確信を持った」などと、よくもまあそんな楽天的なことが言えると呆れる方もいらっしゃるに違いありませんが、私は、それでも、敢えてこう申し上げたいと思います。「日中間では、異文化の壁は必ずや乗り越えられる」と。
その最大の理由は、日本人と中国人の間には、決定的な対立、特に価値観、つまり、人生観、死生観、家族観・・・・、「何を生きがいとして生きるか?」「人生において、何が大切か?」「理想的な世界とはどういう世界か?」
・・・において、決定的な違いがないということにあります。
では、もし、仮に、この価値観が非常に似通っているという私の主張が認められたとして、「何が相互理解の障害となっているのか?」と問われれば、私は、「お互いの境遇をよく知らないこと」だと申し上げたいと思います。(続く)
(2005年12月記・1,773字)
心弦社代表 田中則明
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